【時代の正体取材班=田崎 基】勇気を振り絞って立つ姿が、誰かの勇気になる。大学生の中山美幸さん(22)は2月24日、国会前で行われていた抗議行動の中心に初めて立ち、マイクを握っていた。「安保法制の強行採決から1年半近くたちますが、この政権、どんどんおかしくなってきています」。見詰める先に、漆黒の闇に浮かぶ言論の府、国会議事堂があった。
午後9時、夜も更けた国会前は所狭しと歩道の一部を千人の群衆が埋めていた。緊張からか少しだけうわずった若い声が、切り出す。
「大学生の中山美幸です」
安全保障関連法制が国会で審議されていた2015年夏はテレビの画面で抗議の様子を眺めていた。
「安保法があり得ないほど違憲で、私の身の回りを包む平和が壊され始めるのではないかと感じた」。危機感はあったが、それでも現場へ足を運ぶことはなかった。
それは家庭環境のせいもあった。両親は特定の政党を支持し、選挙になれば当然のように投票するよう求められた。その政党の方針に反対するデモに行くなどと言える雰囲気ではなかった。
だが背筋に感じた「気味の悪さ」を無視することは、自分を裏切ることでもあった。
「高校生のころ、政治経済の授業で『集団的自衛権は行使できない』と習った。私たちにとって当たり前のことが、とても短い時間で政権が覆そうとしている。こんなことがあっていいのか」
胸の中で膨らむ懐疑と危機感。テレビでは、同世代の若者が名乗って直接的に自らの言葉でスピーチしていた。昨夏に解散したSEALDs(シールズ)のメンバーたちだった。抱く不安や危機感を明確に行動として表すことの意味。衝撃を受けた。
安保法は成立し、迎えた16年春。シールズのメンバーが参加するというトークショーに出かけ、話しかけた。中心メンバーの奥田愛基さんだった。「シールズはこれから何をするんですか?」
16年7月の参院選に向けた具体的取り組み、いまの政治、その先にある日本の姿-。同じ大学生の言葉と行動、現実感に希望をみた。
「私が、話す」意味
「国会前の抗議でスピーチしてみない?」。元シールズのメンバーからそう誘われたのは2月24日の数日前のことだった。
「まず考えたのは『どうやって断ろうか』ということ。すごく悩んだ。家庭環境のこともあるし。でも、私がスピーチすることで、家族や友人にこそ何かが伝わるかもしれない」
千人の群衆が見詰めていた。
「憲法9条上の問題になるから、武力衝突という言葉を使っていると淡々と説明できることに、怒りの前に恐怖を感じました。簡単にうそをつき、ちっとも面白くない言葉遊びをして、私たちをだまそうとするこの政権に何も望むことはできません」
言葉の一つ一つに意思を込め。力強く言い放つ。
「そもそも、言い換えをしたところで現地の状況が変わるわけではありません。国会内でどんな表現をしようと、自衛隊は危険にさらされたままです」
語りかけていたのは、もちろんその場に集まった一人一人であったが、それ以上に「私が、話す。そのこと自体に意味を見いだしてくれるのはきっと家族であり、親しい友人だ。私が語っているということで、関心を抱くはず。それが今の政治を考えてもらうきっかけになるはず」
痛みに慣れたくない
だが、名前と顔を出して語ることに不安がもたげる。シールズのメンバーがかつてネット上でいわれのない誹謗(ひぼう)中傷にさらされていたのを知っていた。
初めてスピーチした翌日にはネット上に心ない書き込みを見てしまった。
〈こんな頭で、大学行ってるのかよ〉
そうした中傷に打ち勝つ、無視する、反論するという強さをしかし、備えたいと思わない。
「中傷が繰り返されることで、もしかしたら慣れていくのかもしれない。でも私は慣れたくはない。慣れは同時に、人の痛みに鈍感になっていくことのように思えて。それはさらに国民を見下す権力や政治のありようにもきっと鈍感になっていくことなのだと思う」
たたかれ傷を負い、つらくともやめない。人の痛みを感じられる人であり、なお語り続けたい。それが「個」として立つことの意味と表裏であるから。
意を決したのは、南スーダンへ派遣されている自衛隊が作成した日報問題が連日報道されたからだった。 当初は廃棄されたとしていた日報が一転見つかり、さらにその内容に「戦闘」と書かれているのにもかかわらず、稲田朋美防衛相は国会で「憲法上の問題になる『戦闘』ではなく、武力衝突という言葉を使っている」と言ってはばからない。
国会前でのスピーチでもその欺瞞(ぎまん)に言及した。
「政府の言葉からは、国民を言いくるめて、その場を逃れることができればそれで良いという魂胆が透けて見えます。稲田大臣の言動からは、責任感も判断能力もないことが、よく伝わってきます。もうその場しのぎの言い逃れを許すことはできません」
稲田防衛相の詭弁(きべん)を聞いていて、思った。
「戦争は『さぁ始めるぞ!』と号令がかかって、そこから始まるものなどではない。もっと、ぬる~っと緩慢に始まるのではないか」
そう感じ取ったとき、寒気がした。
「歴史は前にだけ進んでいくものだと思っていた。だけどいまの政治や社会をみていると、確実に回帰している」
歴史は繰り返す、という事さえも繰り返しているのではないか。中学、高校で学んだ歴史。そう、これは「いつか来た戦争への道」に他ならない。その直感が危機を伝える。
国会で議論されている、いわゆる「共謀罪」法案についてもそうだ。
「一般人は対象にならない」「テロ等準備罪であって『共謀罪』ではない。全くの別物」。政府のそうした説明に国民への欺きを嗅ぎ取る。
「法案の内容や政府の説明を聞いていて、これはもう完全にやろうとしていることが戦前だと思う」。権力が暴走し、強行を繰り返す。市民を監視し怪しい人を片っ端から摘発する。生み出されるのは不可逆的な萎縮社会だろう。そのときに人は「戦争をやめろ」などと叫ぶことができるだろうか。
憲法が予定している抑制と均衡が機能せず歯止めが効かない。そして為政者は憲法の縛りすらかなぐり捨てて突き進もうとしている。
握り締めるマイク、スピーチは終盤に差し掛かり熱を帯びる。
「本当に監視されるべきなのは、政府だと私は思います。『戦争できる国』へと突き進む政権を監視し、私たちは『戦争をさせない国民』になりましょう」
そして力を込めた。「うそつきたちのつくる未来に、私はついていきません」
ここに立ち、不安を抱きながらも語る自らの姿を知った身近な人たちは、きっと何かを感じ取ってくれるはずだ。
衆目を集め、カメラを向けられ、ネット上で生中継される中で「美幸がしゃべっている」-。
「きっと誰かが、かつての私と同じように、語り始めてくれるだろう。その連鎖が繰り返されることで、例えば国会前に数千人、数万人が集まり、声を上げることが『別におかしいことじゃない』と伝わっていく。地道かもしれない。だけどそれがいま一番力を持っていると思う。だからまず、恋人、家族、友人に語りかけてもらいたい」
民主主義社会にとってそれが当然の光景であることを信じて。