
民進党の金子洋一氏(54)が横浜市中区の事務所に姿を現したのは、投票日から日付をまたいだ11日午前0時半ごろだった。
12人の候補者が争った改選定数4の神奈川選挙区。最後まで混戦から抜け出せなかった金子氏は「私の能力と人徳のなさが原因。大変申し訳ない」と言い、国会議員や支援者らに頭を下げた。
県連代表の落選に、事務所から徒歩数分の飲食店でも大きなため息が漏れた。この夜、市民勝手連のメンバーは、JR関内駅近くの飲食店に集まり、テレビで開票を見守っていた。
湘南地域の「@湘南市民連絡会」共同代表の飯田能生さん(54)は振り返る。
「野党候補の当確が出たら、どこへでもすぐに駆け付けられるように準備していました」
元NHKプロデューサーの飯田さんは長年、選挙取材に携わった経験から、選挙期間中も報道や過去のデータを元に情勢を分析した。終盤まで3位以下は、金子氏のほか、民進・真山勇一氏、自民推薦(後に自民公認)・中西健治氏、共産・浅賀由香氏が横一線。「だれが当選してもおかしくなかった」と言う。
市民勝手連のメンバーは、最後まで「野党候補2人を当選させる」という目標を諦めていなかった。結果は真山氏のみが当選。開票から2日後、飯田さんは「政党の論理を、市民側が打ち破ることができなかったのが最後まで響いた」と語った。
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市民勝手連の誕生は、半年余り前にさかのぼる。昨年12月、県内発となる市民勝手連「ミナカナ」(みんな、かながわ)が発足。大きな柱となったのは、安全保障関連法の廃止と立憲主義の回復だ。
安倍政権の手法に危機感を抱いた市民らは、夏に迫る参院選で「自民1強」を阻止しようと野党共闘を呼び掛けた。年明け以降、県内各地に同様の市民勝手連が立ち上がり、勝手連同士のネットワークも形成された。
どの候補を応援するかについての話し合いは難航したが、最終的に「安保関連法に反対票を投じた現職の金子さん、立憲主義の回復を強く主張する浅賀さん2人を、勝手連として応援しようという方向でまとまりつつあった」と飯田さん。
流れが変わったのは春先。3月下旬に民主、維新の両党が合流し、民進党が誕生。4月下旬には、神奈川選挙区で、民進党から新たに真山氏が候補者として出馬することも決まった。
この動きに「市民連合横浜☆ミナカナ」の小川道雄さん(70)は「危機感を強めた」と明かす。「票割れ、さらには、市民勝手連内での分裂につながる恐れがあった」。党本部や県連を回り、ぎりぎりまで候補者の絞り込みを要請した。
だが、野党候補は4人が出馬、混戦は必至となった。飯田さんは言う。「市民勝手連として成長するのに時間を要し、政局の進展に付いていけなかった。政党が市民勝手連の存在を認知したときには、候補者が出そろっていて、もう調整ができなかった」。どの候補者に投票するかは一人一人に委ねられた。
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公示後、市民勝手連のメンバーは複数の候補者の応援に回った。「ミナカナ」世話人の石井麻美さん(47)は「野党4候補全員を応援するという言葉通り、各候補者の選挙活動の応援に回った」。民進候補のポスター貼りを行った後、共産や社民候補の電話かけを手伝うなど、応援を“掛け持ち”することも少なくなかった。
多様性を大切にしてきた市民勝手連の選挙戦は、多種多様だった。勝手連の旗を立て街宣活動する人もいれば、あえて、プラカードを出さず、ビラ配りに徹する人もいた。
飯田さんは「一人一人が自主的に動き、活動の輪を広げていくことはとても良かった」とする一方、「いざというときに市民勝手連としてまとまれるか、というと難しかった」と話す。
選挙期間中、ある候補者について「当選確実」という希望的観測やうわさが飛び交い、その火消しに走ったこともあった。
飯田さんは言う。「選挙戦が始まれば皆、一生懸命になり、前のめりになる。それはそれで大切だが、混戦になればなるほど、冷静に情勢を分析し、指示できる人が必要になる。そこがきちんと意識共有できなかったのかもしれない」
市民勝手連として挑んだ初の選挙には、そんな「もどかしさ」も感じていた。