東日本大震災から5年が経過した現在も、福島県では東京電力福島第1原発事故が復興に暗い影を落とす。南相馬市は避難指示区域の解除時期を巡り揺れ、同市に先行して昨年9月に避難指示が全面解除された楢葉町は、帰還者が人口の1割未満にとどまっている。住民たちの思いを、両市町で取材した。
南相馬市内は鹿島区、原町区、小高区の三つの地域自治区に分けられる。中でも小高区は、ほぼ全域が原発から20キロ圏内となっている。
同区は原発事故後、立ち入りが禁止された警戒区域に指定された。2012年4月の区域再編に伴い、(1)日中などの立ち入りが許される避難指示解除準備区域(年間積算線量20ミリシーベルト以下)(2)居住制限区域(同20ミリシーベルト超、50ミリシーベルト以下)(3)立ち入りが原則禁止される帰還困難区域(同50ミリシーベルト超)-に分けられた。隣の原町区の一部も(1)(2)の区域に指定されている。

肝臓がん患い
小高区の佐藤とき子さん(64)は自宅に戻ることを決めた一人だ。昨年8月末から始まった帰還準備のための「準備宿泊制度」を利用し、現在は自宅で生活する。昨夏、肝臓がんで亡くなった夫の美信さん=当時(69)=が、亡くなる直前まで「戻って生活を送りたい」と話していた土地だからだ。
佐藤さんと美信さんはともに同区出身。約40年前に結婚し、ここで板金塗装業を夫婦二人三脚で営んできた。
震災当日は、自宅近くの工場にいたところを激しい揺れに襲われた。佐藤さんは、自宅にいた孫の平井美桜さん=当時(2)=を避難させ、美信さんは、長女の恵美子さん=同(36)=と一緒に同区の沿岸部に住む佐藤さんの両親の元へ向かったが、津波を見て引き返してきた。父親は同年4月に遺体で見つかり、母親はいまも行方不明だ。
原発事故で自宅を追われた佐藤さん夫婦は、会津若松市や新潟県で避難生活を送った。時折、避難先から自宅の様子を確認するために戻ったが、自宅近くの陸橋から目に映ったのは家々が倒壊し、船が陸地に打ち上げられた光景だった。「自宅で生活はできない」と感じた。
南相馬市内に戻り、原町区の借り上げ住宅で生活を送るようになったのは11年8月ごろ。翌12年4月の区域再編後は、自宅と工場にほぼ毎日通った。工場再開へ、津波で浸水するなどして錆びた機械には、手入れが必要だったのだ。だが-。
「お父さん(美信さん)は自宅に戻り生活するか悩んでいた。原町の方が(交通面で)便利。小高では店がやっておらず、生活が不便だということもあった」
12年末からは段階的に対象地域を広げ、避難指示解除準備区域と居住制限区域で、国は期間を限定し寝泊まりを一時的に認める「特例宿泊」を実施していた。だが時間がたつにつれ、帰還と新しい土地での生活との間で心は揺れ動いた。

結果的に自宅に戻ろうと決めたのは14年。決め手になったのは地元で仕事を再開したいという美信さんの思いだった。地震などの影響で傷んでいた自宅のリフォームも15年春にはおおむね完了した。
この頃には肝臓がんを患い、過去約10年間、治療と再発の繰り返しだった美信さんの体調は悪化していた。それでも、同年夏に原町区の病院に入院するまでの間、美信さんは工場に立つこともあり、入院後も最後まで仕事復帰への思いをのぞかせた。
「お父さんは何がしたいの」
恵美子さんや佐藤さんの問い掛けに「(小高区の工場で)仕事がしたい」と話した。望みはかなわなかった。
国への不信感
佐藤さんは、美信さんが亡くなってから準備宿泊制度を利用して、自宅で恵美子さんと2人での生活を始めた。孫が訪れる日も多く、そんな時は、自宅もにぎやかになる。
今年2月下旬、佐藤さんの自宅には、原町区から訪れていた孫の平井悠斗君(9)、美桜さんの姿があった。美信さんの遺影などが置かれた一室で、佐藤さんは「孫が来れば、その時のことを遺影に話しかけて報告するのです。成長を何より楽しみにしていたから」と目を細める。欠かさず「おはよう」「おやすみ」などとも遺影に話し掛ける。
同じころ、国の原子力災害現地対策本部は住民向け説明会で、宅地除染が十分に進んだことなどを根拠に、小高、原町両区の避難指示解除準備区域、居住制限区域の4月中の解除方針を示した。

だがそれに対して「早く帰還させようとしている印象。生活できる環境を整えてからなら分かるが、順番が逆ではないか」と、国に対して不信感を募らせた住民もいる。南相馬市側は2月の説明会の時点で、4月中の解除は困難との見解を示した。その後、国は7月1日を新たな解除時期の目標とし、5月15日から住民に対して説明会で示していくことにした。