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日本初女性報道カメラマン・笹本恒子さん
【ひとすじ】バラ色の人生、追い求め

社会 | 神奈川新聞 | 2016年4月17日(日) 11:28

女性ならではの視点で時代を切り取ってきた笹本恒子さん
女性ならではの視点で時代を切り取ってきた笹本恒子さん

 兄が好きだった米国の写真雑誌「LIFE」に載った一枚の写真。「目にした瞬間、頭の中でピカピカ、ゴリゴリって鳴ったの」と日本初の女性報道カメラマンとして活躍する笹本恒子(101)は、いま目にしたばかりというように、目を輝かせた。

 マーガレット・バーク=ホワイトと記された撮影者の名。「女の人でも、こんなすごい仕事ができるのか」と驚いた。いまとなっては作品の詳細は思い出せないが、その衝撃は体内に残る。

 女性の社会参加が多くなかった時代、多くは学校教育を終えたら、嫁に行く道を選んだ。しかし作文を書いたり、絵を描いたりすることが好きだった少女は新聞記者か、絵描きになるのが夢だった。

 東京・新橋の老舗呉服店の責任社員だった父は絵を描くのは認めてくれたが、画家になる夢は、「嫁のもらい手がなくなる」と大反対。自宅に下宿していた毎日新聞(東京日日新聞)の社会部長から「新聞の挿絵を描いてみないか」と声を掛けられ、こっそりアルバイトを続けた。ある日、新聞をめくると、別のカットが目に飛び込み大慌て。そこには、大版画家「棟方志功」の名があった。

 「こりゃ、太刀打ちならない」。途方に暮れた時、海外に写真を配信する日本初のフォト・エージェント「財団法人 写真協会」に誘われた。

 「まだ日本には女性報道写真家はいない」と耳にし、「ならば、私が」と火がついた。頭に浮かんだマーガレット・バーク=ホワイトの作品。「女性の目線だから撮ることができる写真が必ずある」と口説かれ、1940年、絵筆をカメラに持ち替えた。

満足の一枚


 「絵を描くとき、イーゼルを立てて、両手の親指と人さし指同士を合わせて構図を考えるでしょう。三脚を立ててライカ(ドイツ製の高級カメラ)のファインダーをのぞいた時、あ、似ているかも! とピンときたの」

 同業者からは、「お嬢ちゃん」とからかわれたりもしたが、海外の要人が来日した際には得意の英語で話し掛け、シャッターチャンスを演出した。戦争さなかのヒトラーユーゲントの来日、日独伊三国同盟の調印を記念した婦人祝賀会のほか、戦後の60年安保闘争では国会の前に張り付き、条約改定の反対を訴えるデモ隊を撮影。一目置かれるようになっていった。


戦後の混乱期に貧困に苦しむ子どもたちに教育の場などを整えた女性の姿を収めた作品「蟻の街のマリア 北原怜子(さとこ)」 (1953年、笹本恒子さん撮影)=取材・撮影協力 学研ココファン
戦後の混乱期に貧困に苦しむ子どもたちに教育の場などを整えた女性の姿を収めた作品「蟻の街のマリア 北原怜子(さとこ)」 (1953年、笹本恒子さん撮影)=取材・撮影協力 学研ココファン

 女性もののパンツスーツなどなかった時代。銀座の真ん中で、ハイヒールにスカート姿で、脚立に上った時は、周囲に人だかりができた。どうしても撮影したい構図があり、地べたに寝そべったこともある。75年のキャリアを持つが、「まだ満足した一枚はない」と貪欲だ。

 写真の掲載先だった雑誌が廃刊になったことをきっかけに、一時現場を離れた。だが、昭和が“還暦”を迎えた85年に小説家の井伏鱒二、社会党委員長の浅沼稲次郎ら昭和史を彩った人物たちの肖像写真をまとめた企画展を行い、再び注目されるようになった。

どこへでも


 笹本が次に目を向けたのは、「明治生まれの女性たち」だった。

 「選挙権もなく、女、子どもとひとくくりにされていた男尊女卑の時代、炊飯器も冷蔵庫もない中、赤ちゃんをおぶって洗濯をしている女性もいました。家を守るため、苦しいことをしていたのは女性」

 男性と同じように働く生き方に、父の理解を得られなかった自分自身の姿も重ねた。

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