当時は大学4年。入社を控え、4月の統一地方選に向けた報道事務のアルバイトとして横浜の本社で働き始めていた。あの日もそうだった。
先輩記者はカメラとメモ帳を持ち、走って出て行った。何もできない私は考えた末、近くの手作りパン店で記者の人数分の総菜パンを買ってきた。当時の私にとっては、それが最善の仕事だと思った。
本当は、記したかった。悔しかった。過ぎ去っていく目の前の「いま」を手を伸ばしてつかむすべを、私は持っていなかった。
計画停電などの影響もあり、東日本大震災の当日以外にも東京都多摩市の自宅アパートに帰らず、会社に泊まることがあった。深夜3時、ソファで眠れずにテレビをつけると、がれきだらけの町を歩く高齢の男性の姿が映っていた。泣きながら家族の名前を呼び続ける。「生きててけろぉ」
取材には特別な資格もキャリアも必要ないが、利己的な考えで被災地に入り、被災者を傷つけることはしてはいけないと思った。
新人研修中の5月。ボランティアに向かった。何もできない自分自身が耐えられなかったからだろう。福島県南相馬市で沿岸部に散乱した思い出の品などの泥落とし。翌年の秋には、海水をかぶり塩害の影響が深刻な畑で作業を手伝った。
何もない状態から再起の道を歩み始めた被災地は、2011年に新聞記者になった私自身とも、何となく重なる気がしている。
5年の節目を控えた今年3月、取材者として宮城県気仙沼市に入った。ボランティア活動の際に見た痛々しいがれきの山も陸に乗り上げた「第18共徳丸」も、もうなかった。
町は変わる。人も変わる。でもあのとき感じたもどかしさは、ずっと忘れずにいたいと思う。