
キャスター付きのイスが次第に大きく動き出し、机につかまっていなくては、体が放り出されそうになった。
2011年3月11日午後2時46分すぎ、横浜市中区の神奈川新聞社11階の編集局フロアは徐々に大きく揺れ始めた。ガチャン、ガチャンとブラインドが窓に激しく当たり、倒れた棚からはスクラップブックや資料が飛び出した。
机にしがみつき、県警記者クラブに連絡を入れた。「そっちは大丈夫か」というようなやりとりをした記憶がある。市内各署を受け持つ各記者の安否、そして今、どこにいるのか、担当地域での被害の程度はどうなのか把握しなければならない。
大事故などの取材時に使う大型のホワイトボードを編集局中央に据えた。各記者がどこで何を取材しているのか、デスク間で共有するためだ。
通信規制で携帯電話はつながりにくくなっていた。それでも、各記者と何とか連絡を取っていった。断続的に揺れが続く。船酔いのような感覚に陥った。
「1人死亡、45人重軽傷」。県内被害をまとめた記事を1面で、帰宅困難者を受け入れた横浜アリーナ、パシフィコ横浜の様子を別の面で伝えた。
こうした事実は今、当時の紙面を見て思い出している。あの時、自分が何を指示し、紙面制作をしたのか、実は記憶が鮮明ではない。ただ、編集フロアに流れるニュース速報で、東北各地の町名、市名とともに「壊滅状態」という言葉を何度も聞いたことは鮮明に覚えている。
会社で一夜を過ごした。
翌12日、東京電力福島第1原発での爆発の映像がニュースで流れた。
地の底が抜けた気がした。これからどのようなことが起きるのか。何を、どう伝えればいいのか。正直に言えば、その日は、文字通り頭の中が「真っ白」になっていた。