
「天井はすべて剥げ落ち、金属製の骨組みやダクトがむき出しになっていた」-。
2011年3月13日付の横浜・川崎版に、そう書いた。当時は横浜市政担当。東日本大震災の翌日の同12日、市内でも特に被害が激しかったボウリング場「ハマボールイアス」(西区北幸)を視察した林文子市長に同行した。
電気系統が故障した室内は真っ暗だった。職員の懐中電灯が照らす床は、割れたガラスや部材で足の踏み場もない。もし今、また大きな余震が来たら-。暗闇の中、そんな不安がよぎった。
だが、正直に告白すれば、それ以上の状況をほとんど思い出せない。
駅前のレジャー施設がこれほど大破していれば、地方紙なら本来、1面か社会面に記事が載っていただろう。でも、現実のものとは思えない津波被災地の惨状が紙面を覆った。次々と伝えられる衝撃的なニュースの中、4人が軽傷を負ったハマボールの被害が大きく取り上げられることはなかった。
逆によく覚えているのは、大勢の帰宅困難者が市役所の1階廊下に座り込んでいた3月11日夜の光景だ。市の職員が敷物にと段ボールを用意したが、寒さがぶり返し暖房の効かない夜にはあまりに心もとないものだった。困惑し窮屈そうな人々の姿に、戦時中の防空壕(ぼうくうごう)の中は、こんな様子だったのだろうかと思ったりもした。
一体いつまで、混乱は続くのか。被害や影響の全体像が見えず、正確な記事を発信できているのか、確信を持てない日が続いた。
