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転機・あの日から 巨大津波警告できず 地震研究者

社会 | 神奈川新聞 | 2016年3月2日(水) 14:43

関東大震災などで隆起した地形について学校教員らに説明する宍倉さん(手前左)。全国各地で巨大地震の痕跡を探っている=千葉県館山市、2015年8月
関東大震災などで隆起した地形について学校教員らに説明する宍倉さん(手前左)。全国各地で巨大地震の痕跡を探っている=千葉県館山市、2015年8月

 5年前の「あの日」が転機になった。だから今の自分がある。進むべき道を定めた災後の日々を追う。

 経験したことのない激しい揺れに驚いたのは「想定外」の事態だったからではない。「いつ起きてもおかしくない」と考えていた巨大地震が現実になったからだ。

 震度6弱。「瞬間的には直下地震だと思った」が、揺れはいつまでも収まらない。それは直下地震として予想されていたマグニチュード(M)7級の「大地震」では起こり得ない状況に違いなかった。

 2011年3月11日午後2時46分。地震研究者の宍倉正展(46)は勤務する産業技術総合研究所(産総研、茨城県つくば市)活断層・地震研究センターの図書室で打ち合わせ中だった。当時の肩書は海溝型地震履歴研究チーム長。散乱する資料の中、手元の端末でM8級の「巨大地震」が三陸沖で起きたと知る。「あの地震が再び発生してしまった」。そして、後悔の念にさいなまれる。「せめて、あと1カ月後に起きてくれればよかったのに」


 「あの地震」が日本を襲ったのは、千年以上も前のことだった。平安時代に編さんされた歴史書「日本三代実録」に記述がある869年の貞観地震。当時押し寄せた巨大津波の証拠を宍倉たちの研究チームが仙台平野などで見つけ、痕跡の広がりから地震の規模がM8・4以上だったとの報告をまとめたのは、東日本大震災の1年前だった。8・4以上というのは、調査が進んで痕跡がさらに発見されれば、地震規模がもっと大きくなるという意味だ。

 その成果が、三陸沖で国が想定する地震活動の評価に取り入れられることが決まっていた。評価の主体である政府・地震調査委員会からの公表予定は2011年4月。発表に先駆けて3月23日には、宍倉たちが関係自治体への事前説明として福島県庁に赴くスケジュールだった。津波浸水履歴図を作製し、沿岸部の住民に配ろうともしていた。

 「それらが地震に間に合っていたとしても、劇的に被害を減らせたとはもちろん思わない。でも、たとえ1人でも2人でも、救えた命があったはずだ」

 だが、社会に警告を発することができないまま、M9・0の「超巨大地震」は起きた。3月11日夜、臨時の会合を開いた地震調査委の当時の委員長、阿部勝征は会見で述べた。

 「これほどの地震は東北地方では想定できなかった」

 
 東日本大震災後の現在は産業技術総合研究所のグループ長として巨大地震の痕跡をたどり続ける宍倉の専門は「古地震学」だ。地質や地形の特徴を見極めて現地調査に出掛け、大地に刻まれた痕跡から、文献の残っていない時代も含めた過去の地震を探る。地震の発生メカニズムを究める、いわゆる地震学者ではない。

 2010年にまとまった研究成果は、869年に起きた貞観地震が仙台平野などに巨大津波をもたらし、その発生サイクルを読むと同じような地震が「いつ起きてもおかしくない」というものだった。しかし、その知見は地震学者にすぐに受け入れられるものではなかった。

 検討の過程で、異論が唱えられた。「『いつ起きてもおかしくない』というのは、東海地震について使う言葉だ」。だが、1970年代後半から切迫性が指摘されてきた東海地震が30年以上も発生せずにきたのに対し、起きることがないとの見方が大勢だった三陸沖の超巨大地震は現実のものとなった。

 震災後、ある地震学者はこう言った。「宍倉さんたちの研究成果を、私は眉唾だと思っていた」

 
 

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