
「戦争法(安保法)が通り、今、憲法9条は瀕死(ひんし)の状態にある。生前葬が済んでしまったと言ってもいい」
安倍晋三政権はいよいよ憲法改正に前のめりだ。そうした中、集団的自衛権の行使を禁じた上で自衛隊を軍隊として位置付け、専守防衛に徹することを明記するという「新9条論」が出ている。こうした風潮に辺見庸さんは強い危機感を抱く。
「あの憲法は自ら選んだものではないから変えていいんだというのとは違う。9条については死守すべきだと思う。そういう議論の余地を与えること自体がすでに退行だ。極めて危険な兆候だと思う」。9条を現状に近づけるべきだというのは、これまでの保守派がさんざんに繰り返してきた主張だからだ。
「国家として、ここまでは武力は持つべきなのは当たり前だといった議論が一番危険だ。世界でも特殊な日本という国には、特殊な絶対反戦主義の9条は必要だと私は思う」
日中戦争が始まり、南京大虐殺が起きた1937年に焦点をあてながら、現代日本を照射した「1★9★3★7」で、辺見さんは政治学者・丸山真男の言葉を引いている。
「これだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」
辺見さんは思う。
99年成立の周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受(盗聴)法、2003~04年成立の有事法制。14年施行の特定秘密保護法。ずるずると、法は通った。
そして今。
「現行憲法は事実上かなぐり捨てられ、歴史的な大転換にある。それなのに、社会を土台から揺り動かすような抵抗も悲嘆もない。またも、ずるずると何ものかに身を任せてしまっているのではないか」
芯なき怒り
辺見さんは昨年、安保法に反対したSEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)の国会前デモについて、自身のブログに率直な思いをつづり、批判を浴びた。
今も基本的に考えは変えていない。
「僕への批判はあっていいし、当然だと思う。ただ、今の政権はリアルだ。本気度が違う。それへの抵抗がまったく見合っていない。街頭での表現というのは直接民主制です。基本的に国会とデモ隊との距離はゼロでなければならない。物理的な障害があれば、観念的には越えていこうとするものだと思う」
辺見さんは続けた。
「十把ひとからげにして言うのはよくないかもしれない。でも、僕には国家権力に親和的な『現象』にしか見えない。人々の怒りを結集したデモンストレーションには見えない。統制され、秩序化し、ここからは何も起こしちゃいけないという意思すら感じさせる。怒りの芯が見えない」
そう述べた上で、自身の考えを語る。
「今、明日にも死にかねないような人間たちは増えていると思う。これからも増えていくだろう。人間が剥(む)き出しにされている。僕は、その剥き出しにされていく最も脆弱(ぜいじゃく)な、最も貧しい人の視点が起点にならないといけないと思っている」
「僕の間違いかもしれないが」と前置きし、辺見さんは言葉を継ぐ。
「国会前の中には、そういう人もいたと思う。だが、今の社会の中で見えなくされている最底辺層をどうにかしようという思想を全般的に感じなかった。全体として、違和感があるもの、醜悪なもの、グロテスクなもの、臭いものを生理的に嫌っているのではないか」
懐疑の目は、知識人や文化人にも向けられる。
「白いクロスを掛けたテーブル席でしゃべって、署名を集めて。もう何十年も見てきた。このインチキさをね