広島で被爆し、川崎に住む80代の男性。逗子に生まれ育ち、海外で学ぶ20代の女性。交わり合うはずのない2人の人生を交差させたのは、原爆を語り継ぐ使命と一つの新聞記事だった。
「原爆は必要悪」「投下は正解だった」-?
留学先の米国の大学で、授業中に読んだ論文の記述に目を疑った。
幼いころから、大阪で空襲を経験した祖父(81)から戦争の話を聞いていた。「広島や長崎で多くの人が原爆の犠牲になった。二度と戦争をしてはいけない」。日本で教えられた歴史は、海の向こうではまったく違った像を結んでいた。
逗子市で生まれ育った持田碧海(あおみ)さん(23)。神奈川県内の高校を卒業後、米国の大学に進む。
「原爆を投下したから戦争が早く終結し、米軍は日本本土を侵略せずに済んだ」。米社会ではそれが一般的な見方だと知る。「歴史上の一つの出来事でも、国によって捉え方が違う」と驚いた。第2次世界大戦の記憶や記録がどのように伝えられているかを、卒業論文のテーマに選んだ。
戦時中の日記や新聞記事を読み、博物館や資料館に足を運んだ。日米の戦争経験者に取材もした。米空軍の元兵士、フィリピン駐留経験者、日本軍と戦った記憶を語る人。太平洋の戦地に送られた人は「原爆がなければ日本に上陸していたかもしれない。原爆投下で命が救われた」と話した。
日本に一時帰国した際には、空襲を体験した人々に話を聞いた。原爆被害者もと捜していた時、ある新聞記事が目に留まる。2014年7月30日付。すぐ連絡を取り、会いに行った。
〈原爆被害者でつくる「川崎市折鶴の会」が市民たちと折った鶴が、ことしも「原爆の日」に合わせて広島と長崎に送られる。語り部としても活動する会長の森政忠雄さんは「戦争を知らない世代と一緒に折ることで、平和を祈る気持ちを伝えられる」〉