
大学生ら15人が死亡した長野県軽井沢町のスキーバス事故から15日で1年が過ぎた。捜査などを通じて浮かび上がったずさんな運行管理の背景には、バス事業の過当競争を招いた規制緩和がある。影響は長距離路線にとどまらない。激烈な価格競争が業界全体の経営体力を奪い、乗務員の待遇を悪化させ、結果的に身近な路線バスの安全をも脅かしつつあるのだ。
■眠そうな運転士
「車体がガクガク揺れることもあった」。横浜市南区に住む旅好きの女性(36)が数年前、格安夜行ツアーバスで経験した危うい瞬間。一度ならず、眠気を漂わせながらハンドルを握る運転士を目の当たりにした。
「こんなに安いのはおかしい、きっと運転士さんにしわ寄せが行っているだろうと当時も思っていた。でも…」
車内は安く旅行できるからと学生や年配者で混んでいた。東京から山形まで4千円、仙台や金沢まで3千円、名古屋までは2千円ちょっと…。群馬県の関越自動車道で乗客7人が死亡した2012年のバス事故の後に法改正されるまで、実際にあった運賃だ。
同区に住む男性会社員(34)も学生時代、何度かツアーバスを利用した。ある時見たのは、壊れたままの座席や、狭い椅子で仮眠を取る交代要員の運転士の姿だった。「それ以降は運賃が高くても、乗務員の健康管理や車両整備がしっかりしていそうな私鉄、JR系のバスを選ぶようになった」と男性は言う。
バス業界には00年、02年と2度の規制緩和があった。需給調整のための参入規制を取り払い、新規参入を促し価格やサービスの競争を喚起する狙いだった。
結果、バス会社が運行する従来の長距離路線バスとは別に、旅行代理店が乗客を募集し「旅行商品」として貸し切りバスを運行するツアーバスが急増。曜日や季節ごとに価格が変動するなど概して安価で、競合する長距離路線バスの価格水準もつられて低下した。
だが、この規制緩和には大きな欠陥があった。
■市場原理の神話
参入条件を緩くしても、安全でない業者のバスは消費者が選択しなくなり、やがて市場から淘汰(とうた)される-。それが規制緩和論者の想定した「市場原理」だ。
現実には、重大事故が相次いだ。大阪府でアルバイト添乗員が死亡、乗客26人が重軽傷を負った07年のスキーバス事故、そして12年の関越道の事故。国土交通省は運転距離を400キロに制限するなど対策を立てたが、結局は軽井沢の事故を防ぐ効果はなかった。
「フィクションだと言わざるを得ない」。運輸業界の実態に詳しい北海学園大(札幌市)の川村雅則教授(労働経済学)は、楽観的な市場原理に基づく「事後規制」の欠陥を断じる。
規制緩和論者の中には、規制を撤廃して得られる経済効果と、起こり得る事故の損害を比較し、後者の方が小さければ緩和すべきだとの主張さえあった。「計測不可能な人命の価値を“コスト”として比較する乱暴な議論だった」と川村教授は批判する。
「事後規制」の神話は、現実には、後手後手の弥縫(びほう)策にすぎなかった。4500社に上る貸し切りバス会社を監査する国交省の監査官は360人ほどで、チェックが追い付いていなかった。
川村教授は、安全面だけでなく新規参入の制限も訴える。一定規模の経営基盤がなければ、運行管理や労務管理が満足にできないからだ。「現状の規制はあまりに脆弱(ぜいじゃく)で、事実上の放任状態。事後規制では根本的な解決はない」
■放任の公共交通

ツアーバスの新規参入は価格崩壊を招き、厳しい基準で運行してきた私鉄系など既存のバス会社にも大きな打撃を与えた。
国交省の調査=グラフ=の通り、路線バスは車社会や人口減少などを背景に乗客、収入とも減少傾向にあるが、業者数は10年間で3倍以上に。少ないパイを奪い合う構図は鮮明だ。以前は利幅の大きい長距離路線バスの利益で自社の地域路線を維持、充実させる「内部補助」が機能していたが、その構図は崩れた。
そして各社は、経費削減を徹底した。分社化を進め人件費を圧縮し、運転士1人当たりの拘束時間を延長。地域路線の多くでは、朝の通勤時も夜帰る時も、乗ったバスの運転士は同じ人だった-。それが当たり前になっている。
「カネのためではない、安全のためだ」。昨年12月、川崎鶴見臨港バス(川崎市川崎区)の労働組合が36年ぶりのストライキに踏み切った。要求は、早朝から夜遅くまで拘束される勤務体制の改善。特に6時間にわたる昼間の休み時間「中休」の軽減だった。
一般に路線バスは朝夕の本数が多い一方、昼間は間隔が空く。合理化の結果、以前は別々の運転士が担当した朝夕の運行を、1人が中休を挟んで担うことが常態化した。中休は労働時間と見なされず、ほぼ無給だが、午後の乗務を控えた運転士は緊張が解けない。
現状では、これも合法。厚生労働省が定める「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」は、運転士の拘束を1日16時間、週71時間半まで認めているのだ。ここにも、公共交通の「放任」が表れている。
別の会社の男性運転士は明かす。「中休を経た夜の勤務は集中力に欠け、眠くなる」。窓を開けたり、折り返しの数分間に背伸びをしたりして何とか眠気を防ぐが、渋滞で遅れればその時間が削られ、トイレにも行けず走りっぱなし…。
バスはよく遅れる。ダイヤ自体に余裕がないのも一因だ。「1分ずつでも運行時分を削れば年間ベースで多額の人件費削減になる」と、男性は経営側の狙いを説明する。遅れを回復するため、無理にアクセルを踏むこともあるという。
男性は言う。「規制緩和の際、なぜ安全を担保する仕組みを設けなかったのか。命の扱いが軽すぎる」。そのことを利用者の多くは知らない。