原節子さん死去のニュースから一夜明けた26日、自宅のあった鎌倉市やロケ場所などゆかりの地では、伝説の女優を悼む声が上がった。都内の映画館では急きょ、献花台が設けられ、スクリーンの中で輝き続ける原さんの優雅な姿を懐かしんだ。特集コーナーを設ける書店も-。
公の場から姿を消して半世紀。銀幕でのヒロイン像を人々の記憶に鮮やかに刻み、原節子さんが95歳で旅立った。自宅のあった鎌倉市では「自分を律して生きた人」「静かな暮らしを乱してはいけない」と関係者や地元住民が、伝説の女優のつつましやかな生活を見守っていた。折しも小津安二郎監督の特別展が鎌倉市川喜多映画記念館で開かれており、ファンがその死を悼んだ。
「女優の象徴のような人。一つの時代が終わったと、ぼうぜんとしている」。原さんが出演した小津映画のプロデューサーを務めた山内静夫さん(90)=鎌倉市=は女優引退後、原さんとは直接会ったり、話したりしたことは一度もないという。
「映画や芸能の世界から離れ、一人の女性としての生き方を選んだということでしょう」とその心情を推し量る。「自分を律して生きた人。容姿が美しいだけじゃない。知性や個性にあふれた人だった」と話した。
同市の自宅で同じ敷地に住んでいた原さんのおい熊谷久昭さん(75)は「95歳ですし、大往生です。安らかに眠ることができ良かった」と静かに語った。新聞が好きで、シリアなど世界情勢の話をよくしていた。映画の話はしなかったという。「世間や小津監督に評価はされても自分では100パーセントは納得していないと言っていた」と明かした。
原さんの自宅近くにある飲食店の女性店員(43)は直接その姿を見たことはない。「『東京物語』の原さんはしぐさも言葉も気品があって、びっくりするほど美しい。こんな方が近くに住んでいらしたなんて信じられない気持ちだった」。ファンから「自宅はどこ?」と尋ねられることもあったが、ひっそりと暮らしていた人なので教えなかったという。
伝説の女優の静かな暮らしを尊重し、周囲もこまやかな心配りをしていた。自宅近くの男性(74)は「自分のことを話さない人だった。気が引けるので、こちらからも声を掛けなかった」。近所に住む女性(65)も「ひっそりと暮らしていました。私たちも会釈するぐらい。それを私たちも乱したくありませんでした」と振り返る。
小津監督の命日である12月12日に合わせ、鎌倉市川喜多映画記念館では特別展が開催中。横浜市から訪れた男性会社員(33)は「90代でご存命なのは知っていた。ポスターを見ても表情に引き込まれる。本当に伝説の女優だと思う」と話し、ポストカードを買い求めていた。
原さんが在籍していた私立横浜高等女学校(現横浜学園高校、磯子区)の田沼光明校長(58)は「先輩に大女優がいたことは励みになる」と、近く全校集会で原さんの話をするという。