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【記者の視点】報道部・田中大樹
時代の正体〈196〉うちなーの誇り胸に 沖縄経済考(下)

社会 | 神奈川新聞 | 2015年9月24日(木) 11:46

 4年ほど前、沖縄で建設・小売業を手掛ける「金秀グループ」の呉屋守將会長は政治から一線を引くと決めた。沖縄経済界をけん引し、保守陣営を支えてきた重鎮の一人。ただ、心に誓ったことがあった。「県難、国難に直面したときは再び立ち上がろう」

 2014年11月の沖縄県知事選。名護市辺野古の新基地建設反対を掲げ、初当選した翁長雄志知事の選対本部長を務めた。呉屋会長を再び政治の世界へと突き動かしたのは「うちなーんちゅ(沖縄人)としてのアイデンティティーだった」。

 知事選1年前の13年11月、自民党の石破茂幹事長(当時)の圧力に屈し、沖縄を地盤とする同党国会議員5人が新基地建設を事実上容認した。会見の席上、石破幹事長の横で5人が一様にうなだれる。その姿は、沖縄を力でねじ伏せる「琉球処分」の再来を感じさせた。翌12月には当時の仲井真弘多知事が公約を翻し、辺野古埋め立てを承認した。

 「戦前、戦中、戦後と沖縄は何度も何度も傷ついてきた。そしてまた、うちなーんちゅの尊厳が踏みにじられた」。まさに、県難だった。

復帰さえすれば


 「そるように言われるんですけどね」。辺野古問題の解決に糸口は見えず、願掛けで蓄えたひげに別れを告げる日は見通せない。ただ、時にはユーモアも交え、新基地建設阻止の活動を鼓舞する。

 辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前でのことだ。「金秀グループは基地関連の工事はやらないそうです」と紹介され、「基地工事はやります」と応じた。しんと静まり返る中、言葉を継ぎ、「撤去工事をやります」。一転、拍手喝采に沸いた。

 建築土木はグループの主要部門だ。ただ、「これだけ多くの県民が反対の声を上げている。沖縄の経済人として、『県民に寄り添う』と掲げる企業として、辺野古問題を避けることは許されない。県民と歩む誇りある存在でありたい」。新入社員と幹部社員が研修で辺野古を訪れた。経常利益の1%ほどを平和活動に充てると宣言した。新基地建設阻止が目的の「辺野古基金」の共同代表を務め、事務局を本社ビル内に置く。

 本土復帰前、日本は「ドリームランド」だと思っていた。復帰さえすれば全ての問題が解決すると信じていた。「でも幻想だった。幸せは、自ら汗を流さなければ決して手に入らない」。多忙を極める経営者だが、多くの時間と労力を新基地建設阻止にささげる。

 見据える先はしかし、ひとり沖縄の将来だけではない。国難を憂う。

 「辺野古を守る。それは、日々危うさを増す日本の平和と民主主義を守ることでもあります」

太平洋の要石


 「時流が沖縄に味方している。マーケットが沖縄を認めている」。県の政策参与を務める沖縄国際大学の富川盛武教授は感慨深げだ。

 アジアに近い地理的な優位性を持ち、「沖縄固有の歴史、文化、風土など人を引き付ける『ソフトパワー』も秘めている」。豊かな自然は、持続的な発展を地域にもたらす観光資源となり得る。それだけに「自然が持つ効用を深く認識すべき」と辺野古の新基地建設を批判する。

 思い描くのは、アジア交易の拠点として繁栄した琉球王国だ。当時、首里城の梵鐘(ぼんしょう)に「万国之(の)津梁(しんりょう)」(世界の架け橋)とうたった。県民の思い入れも深い。

 沖縄のアイデンティティーが高まるほどに、ともすれば本土では「独立論」が取り沙汰される。富川教授も講演の席で可能性を問われた。「多くの県民は望んでいない。現実的でない」と応じたものの、「留飲は下がります」。政府に対する県民の憤りを代弁した。

 沖縄が活躍する舞台は経済に限らない。4月、河野洋平元衆院議長率いる訪中団に翁長知事が参加した時のことだ。会談当初、中国の李克強首相の表情には硬さが見えた。日中関係の悪化が影を落としていたが、翁長知事が琉球王国時代の中国との親交ぶりを話題にすると一転、打ち解けた雰囲気に変わったという。「歴史的にも文化的にもアジアに近く、(政治的な)バッファー(緩衝)にもなり得る」。富川教授の持論だ。

 戦後、沖縄は「太平洋の要石(キーストーン)」と位置付けられ、軍事的に重要視されてきた。「ならば、経済的にもキーストーンになり得る」。呉屋会長も期待を寄せる。

 「経済交流は単にカネやモノを交換するだけではない。政治や文化の交流を生み、ひいては平和をもたらします」

 本土復帰43年、戦後70年、琉球処分から136年。沖縄の潜在力が今、再び花開く。


苦難の共有 忘れるな
 沖縄本島最北端の辺戸岬。初めて見た姿は、暗闇に浮かぶ赤い点だった。

 4月28日。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄は日本の施政下から切り離された。本土は「主権回復の日」と祝い、沖縄では「屈辱の日」と呼ぶ。沖縄の本土復帰前、日没時に鹿児島の与論島と辺戸岬の双方でかがり火をたき、北緯27度線上の海に引かれた「国境」を越えて、互いの存在を確認していた。

 十数年前、当時を再現する行事を取材し、与論島の丘から辺戸岬を臨んだ。紅の瞬きが視界に入る。眼前には漆黒の海が広がり、近さと遠さを同時に感じる不思議な感覚だった。

 以来、本土と沖縄の距離は縮まっただろうか。答えは「ノー」だ。むしろ、翁長雄志知事に「県民の気持ちには魂の飢餓感がある」と言わしめ、国連で世界の良識に直接訴えざるを得ない事態に追い込んでいる。

 背景にあるのは、沖縄の歴史、経済の実情、米軍の抑止力に対する本土の無知だ。基地依存という幻想は、基地を沖縄に封じ込めたい政府や御用メディアにとって都合の良い神話ではないか。本土の人々も基地負担を押し付けている後ろめたさから逃れるため、現実から目を背けているように思える。

 沖縄が歩んできた苦難の歴史はしかし、本土で共有されつつもある。辺野古問題への関心は高まり、安全保障関連法をめぐっては、民意を無視する安倍政権の暴走ぶりを身をもって知った。圧倒的な国家権力と向き合ってきた沖縄の苦難がようやく、わが事として身に染みたのではないか。

 ただ、自覚しなければならない。4年半前の東日本大震災。日本中が「がんばろう日本」の一色に染まったが、今は話題に上ることさえ少なくなった。10万人以上の福島県民が今なお避難生活を余儀なくされているにもかかわらずだ。私たちは流されやすく、そして忘れやすい。

 沖縄は琉球王国時代のDNAを呼び起こし、広くアジアに目を向け、同時に本土へのまなざしも忘れない。一方、本土は視野狭窄(きょうさく)の内向きな戦前回帰に突き進む。

 主権、自治、憲法、人権、平和、民主主義…。安全保障だけではない。沖縄が問い続けてきた問題は、私たちの日常とかけ離れた別世界の話ではなく、一刻の猶予も許されない日本全体が直面する危機だ。むき出しの権力と対峙(たいじ)する辺野古問題は、その象徴と言える。

 沖縄を直視する。それは、この国の姿を見詰めることであり、ひいては私たち一人一人の心のありようを省みることでもある。

 
 

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