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問われる南スーダンPKO派遣
〈時代の正体〉新春スペシャル対談 三浦瑠麗-倉持麟太郎(上) 危機に直面する国際貢献

社会 | 神奈川新聞 | 2016年12月31日(土) 23:59

国際政治学者の三浦瑠麗さん(左)と弁護士の倉持麟太郎さん
国際政治学者の三浦瑠麗さん(左)と弁護士の倉持麟太郎さん

【時代の正体取材班=田崎 基】自衛隊の国際貢献、憲法9条、変貌を遂げた安全保障法制。21日(日本時間)には米国大統領にトランプ氏が就任する。日米同盟にはどう影響するか。変革のときにあって、私たちはどう考え、何を選び、どう行動するか。気鋭の国際政治学者、三浦瑠麗さんと、憲法論議に詳しい弁護士、倉持麟太郎さんの対談から2017年を見据える。3回連載の初回は、事実上の内戦状態ともされている南スーダンへの自衛隊国連平和維持活動(PKO)派遣と、日本の国際貢献のあり方、そして憲法9条をテーマに語る。


 倉持麟太郎 自衛隊のPKO派遣は、1992年のPKO法成立から続く根が深い問題だ。当時、政府はPKOであれば憲法9条における「交戦」の問題を迂回(うかい)して通れると考え、PKO5原則を立てて合憲性を担保した上で「派遣できます」と言い派遣してきた。
 だが94年にルワンダで民族大量虐殺(ジェノサイド)が起き、PKOは変化していった。


くらもち・りんたろう 東京都出身。2005年慶大卒、08年中央大法科大学院卒、12年弁護士登録、横浜弁護士会に所属。14年から第二東京弁護士会。15年7月の衆院平和安全法制特別委員会で参考人として意見陳述。
くらもち・りんたろう 東京都出身。2005年慶大卒、08年中央大法科大学院卒、12年弁護士登録、横浜弁護士会に所属。14年から第二東京弁護士会。15年7月の衆院平和安全法制特別委員会で参考人として意見陳述。

 PKOは当初、軍の監視や住民監視といった中立的立場で、武器を使うときも派遣隊員の身の安全か、抑止力でしか使わないという前提でやってきた。そうした中で起きたルワンダでは各国から派遣された軍が撤退したり、警護任務を放棄したりして、結果的に100日間で50万~100万人という人が虐殺された。

 国連はその後、国際法を順守した上で「交戦主体」となることをいとわず住民を保護する方針へと切り替えた。この時点で日本におけるPKO5原則は壊れてしまったと言える。「戦うPKO」へと変貌したことで、国際貢献と交戦はセットになってしまった。交戦権のない自衛隊が行ってはいけない状況が南スーダンの現状だろう。

<PKO5原則とは>
 わが国が国際平和協力法に基づき国連平和維持活動に参加する際の基本方針のことで、

1、紛争当事者の間で停戦合意が成立していること。
2、国連平和維持隊が活動する地域の属する国及び紛争当事者が当該国連平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
3、当該国連平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
4、上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は撤収することができること。
5、武器の使用は、要員の生命等の防護のための必要最小限のものを基本。受入れ同意が安定的に維持されていることが確認されている場合、いわゆる安全確保業務及びいわゆる駆け付け警護の実施に当たり、自己保存型及び武器等防護を超える武器使用が可能。

 の5つを指し、それぞれ国際平和協力法の中に反映されている。


倉持麟太郎さん
倉持麟太郎さん

 11年に南スーダンへ民主党(当時)が自衛隊をPKO派遣したときとは状況が違った、と今の民進党は主張しているが、実際にはそれよりずっと前の段階でPKO5原則も、憲法9条も壊れてしまっていたのだと思う。

 言いたいのは、自衛隊が武器を使用する任務内容で海外派遣するのであれば憲法9条を改正して交戦権を与えないと誰も責任を取りえないということ。軍事権の行使とは国家最大の暴力であるにもかかわらず、誰も責任を取れない状態で事実上の軍隊を海外に派遣してしまっていることになる。さらに言えば、現行の安全保障関連法で誰が責任を取るかといえば、信じがたいことだが現場で判断せざるを得ない「自衛官」となっている。

 国家が責任を取れない。国民も取れない。このエアポケットに「自衛官」という特殊な人が責任を取ることになってしまっている。何かあったとき、どう責任を取るのか。今回の武器使用の新任務付与でも、相手が「国、または国に準じる組織でないかどうかを、その現場で判断し、正当防衛かどうか判断した結果、打てる場合がある」と言っている。そんな判断を、戦場の現場に押し付けるのか。

 三浦さんは、安全保障関連法案の審議が進められていた際の対談で、「以前からインチキやってきた。このうそをもうやめよう、というのが安保法制」として法改正を肯定していた。だが、うそをつき続けてきたことで「どこへ派遣しようが、派遣先は安全」と言わざるを得ない状況になってしまっている。16年10月に内閣官房が出した文書でも南スーダンの反政府勢力について「国または国に準じる組織ではない」と断じていた。また「紛争行為を評価できるものはない」「国内的にも武力行使というものは行われていない」と、言わざるを得ない状況だ。

 こんな欺瞞(ぎまん)は許されるのだろうか。

 憲法9条との関係から言えば、9条を改正して交戦権を持たせて派遣するか、完全撤退か。あるいは第3の道があり得るのか、という問題になる。

 お聞きしたいのは、日本が今後国際貢献していく上で、武器を持って行く国際貢献は、いまの枠組みで何ができるのか。

出口なき「最後まで面倒をみろ」


 三浦瑠麗 南スーダンについては、まず国際的な観点から説明したい。スーダンと南スーダンとの間で戦争があり、その後、南スーダンが独立した。独立後の南スーダンの国家建設を支援するために国連が入り、そのPKOに自衛隊が派遣されたという整理だ。現在は、その南スーダンの情勢が不安定化し、事実上の内戦に発展しようとしている。


みうら・るり 国際政治学者。茅ケ崎市出身。県立湘南高、東大を卒業し東大大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程修了。東大政策ビジョン研究センター講師。青山学院大兼任講師。著書に「日本に絶望している人のための政治入門」(文春新書)。
みうら・るり 国際政治学者。茅ケ崎市出身。県立湘南高、東大を卒業し東大大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程修了。東大政策ビジョン研究センター講師。青山学院大兼任講師。著書に「日本に絶望している人のための政治入門」(文春新書)。

 原則論として、国際社会が必要性を共有しているPKOについて、例えば兵力引き離しや選挙監視、あるいはインフラ建設というものについては日本が積極的に貢献するのはいいことだと私は思っている。ただ、リスクの低いことをやりに行った軍隊が、状況がまずくなったときに、退くということは直接的には手を下していないにしても虐殺を放置し、見殺しにしたというある種、手を血に染めたという感覚にならざるを得ない。

 ルワンダでの失敗の例などから「やるのであれば最後まで面倒を見ろ」というのが国際的な見方となり、それは筋が通っている。倫理的に考えれば、現地の情勢が不安定になったからといって撤退はしがたく、派遣継続はその道しかなかったと言える。同時に、国にとってのコスト認識という観点もある。例えば、派遣地域が自国に近ければ近いほど、自国の安全にも関わるから、関与する価値があるという話になる。

 もちろん南スーダンは遠い。それでも「価値がある」「日本は国際貢献すべきだ」というとき、理念や概念からの価値付けにならざるを得ない。では、理念に基づいて日本が軍事的に関与し救済することを含めて貢献するんだ、ということになると、倉持さんが指摘するように憲法上の問題が生じる。

 いいか悪いかは別として、日本国憲法は交戦権を否定している。これまでの政府解釈を踏まえれば、自衛戦争だとしても、国際法上かなり限定的な自衛戦争さえ許されていないということになる。米国がやっているような国際法のねじ曲げというのは日本は行わないことになっている。

 過度に専門的にならずに「武力の行使」について整理すると、現在の国際社会が想定しているものには大きく3種類あると思っている。

 (1)国連軍に代表される国際社会が要請する武力行使(2)同盟国間の集団的自衛権行使(3)国連憲章をはじめとする国際法で認められた自衛権の行使、である。

 憲法9条2項が否定する交戦権は何が対象なのか、長年争われてきた。私のように国際社会の側から問題を見る者からすると意味不明なガラス細工の解釈論が積み上げられている。

 国際的には要件を満たせば、どの形態ももちろん合法である。何を、日本が憲法的制約として自らに課すかは自らの意思の問題だ。

 憲法9条2項の本質は敗戦国に対して制約を課すことである。第1次世界大戦後のベルサイユ体制の中でドイツの再軍備を制限したのと同じ理屈だ。軍事的制限とともに課された過大な賠償金が、ドイツ民族の不安と屈辱に直結し、後のヒトラーの台頭を招いた。


三浦瑠麗さん
三浦瑠麗さん

 国際社会や米国もそこからは学んでいて、日本が経済的に復興することは妨げず、むしろ積極的にこれを支援した。しかし、憲法9条2項の制約は残ったのである。

 もちろん、そこに吉田茂をはじめとする戦後初期の施政者の知恵も介在している。冷戦が激化し、共産陣営に対抗するために日本に応分の負担を求める米国の要求から逃れるために、憲法9条は格好の言い訳を提供したのである。

 さすがに戦後70年以上が経過した今、大昔の経緯論を持ち出しても仕方が無いだろう。現在の9条2項の成否は、敗戦国として日本が特別の制約を自らに課すべきかという問いへの答えとして決まってくるのである。

 日本は敗戦国であり、危険な国であり、それゆえに軍備を制限され交戦権が否定された対象であると考える場合には、一応非武装というフィクションを保つことになる。

 ただ、抽象的に憲法解釈をもてあそんでいるだけならいいのだが、PKOという文脈では具体的に問題が生じる。日本は日本人自身に対してさえ安保問題ではごまかしを続けてきたのだから、国際的に説明する言葉を持っていない。

 日本には憲法がありまして、という「お家の事情」を訴えることは説明ではない。軍事力による国際貢献は行わないのか、貢献はするが現場が危なくなったら住民の保護はしないのか、どうしてそのような行動に至るのか説明責任が生じるのだ。

 現実にこうした問題がこれまで生じてこなかったため具体的に考える必要はなかったということだろう。

 普通に考えたら「コストは応分負担すべきだが、日本だけはコストを分担しない、だが大国としてのリーダーシップは振るう」となれば、それは非難されて当然だろう。非難されてもその形を続けるのであれば、日本が積極的に何らかの概念整理をして、自分たちがどういう国で、何をするのか、答えが必要になる。スウェーデンがかつて平和国家として国会で侃々諤々(かんかんがくがく)議論したように、定義する必要だ。

 このような大本(おおもと)の定義に加えて自衛隊をどうするべきかという問題もある。海外で本格的な戦闘に巻き込まれるのは、能力的にも犠牲的にも無理だ。

 まず、自衛隊があれだけの少人数で南スーダンの治安を確保することはできない。自らの身を守り、目の前の住民を守るため人を殺すことはできても、南スーダンを平和に導くことはできない。

 また、日本国民がコストに耐えられるような状況でもない。政権も含めて、日本人は相当規模の犠牲の覚悟ができていない。こうした状況の中で、自衛隊が一番切実に犠牲を覚悟している存在となっている。

 現場で困難に直面するのが彼らだからである。それに対して、政府の中の優先順位も、国民の関心も驚くほど低い。

 自衛隊を含め、軍が最終的に一番大事にしているのは国防だ。その前段階として災害時の救助活動や平和構築がある。だから、PKO派遣を訓練の一貫と捉えている部分もあるだろう。だが、結局のところ軍を作っておいて軍的な思考ではない方法でやれ、というのは無理がある。


国際政治学者の三浦瑠麗さん(左)と弁護士の倉持麟太郎さん
国際政治学者の三浦瑠麗さん(左)と弁護士の倉持麟太郎さん

 今の時代、仮に戦争する場合でも相手国のシビリアン(市民)を殺害しないというのは大事な原則になっている。だから、平和構築だろうと、敵国が明確にいる場合であろうと、原理は一緒である。だから、米国も90年代のPKOに参加する際も、PKOに直接は参加せず、それと呼応する自国なりの作戦を立てている。

 政治や国民がこれまでの経緯論で、自衛隊に望もうとしていることと、自衛隊が自らに課しているものが異なる可能性がある。そうした乖離(かいり)の如実に示すものとして、稲田朋美防衛相は南スーダンへの自衛隊派遣について「リスクがない」と言い出す始末である。さすがに、それは安倍晋三首相が「それはだめだ」と撤回したが。

 稲田防衛相の発言に至る経緯について、自衛隊幹部は怒り、失望している。防衛相への失望というよりも、自民党全体、国会議員全体がそうだ、と分かった上での失望だ。リスクはあるに決まっている。だから自衛隊は

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