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紙一重で難を逃れ 富岡空襲の記憶語り継ぐ

社会 | 神奈川新聞 | 2015年8月28日(金) 13:08

 永森邦雄さん
永森邦雄さん

永森邦雄さん(80)

 わが身に迫る危険を感じたのは、「歴史に埋もれてきた空襲」ともいわれる1945年6月10日の富岡空襲です。当時は10歳。祖母と両親、きょうだいとの計8人で杉田(横浜市磯子区)に住んでいました。

 家族で家にいたとき、7歳上の姉が「近いよ」と叫びました。通っていた師範学校で5月29日の横浜大空襲に遭遇していた姉は、ひどい雨のような「ザー」という音を聞いて空襲だとすぐに気付いたのです。一瞬の出来事でしたが近くの工場が狙われ、防空壕(ごう)に逃げ込む暇はありませんでした。直後に爆風で窓が枠ごと外れ、家の中に落ちてきました。紙一重で大きな被害を免れましたが、横浜大空襲よりも恐ろしい体験でした。

 大空襲の時は防空壕に身を潜めながら、飛来してくるB29を360機まで数えました。余りに整然と並んで飛んでいたため日差しが遮られ、空が暗くなったことを覚えています。焼夷(しょうい)弾が横浜の中心部に次々と落とされ、燃え上がるのを対岸からぼうぜんと眺めました。

 4、5日ほどたってから親類の安否を確かめようと兄と日ノ出町などに出向きましたが、コンクリート造りだったため残っていた映画館の映写室や焼け焦げた消防車以外は覚えていません。まさに一面が焼け野原でした。

 私が戦後に進学した県立横浜平沼高校も、大空襲で建物の一部が焼失しています。付近の平沼橋は米軍の攻撃目標の一つでした。

 戦時中は女学校だった母校の校史をひもとくと、戦時体制に組み込まれ、学校が学校でなくなっていった様子がよく分かります。戦勝祈願やなぎなたの鍛錬などが日常化し、工場での学徒動員もありました。

 特色だった英語教育も禁じられ、敗戦後は進駐してくる米兵を恐れた女性の戦後疎開も行われました。そうした苦難を示す写真や体験記が数多く残っており、現在、母校の歴史資料展示室で展示しています。

 私は戦中派ではないし、大きな被害を受けてもいませんが、7年前に転機がありました。大学生だった母校の後輩から戦争体験を教えてほしいと頼まれ、インタビューを受けたのです。

 以来、自分のような体験でも伝える意味があると思うようになり、展示室の見学者や生徒には語り継ぐようにしています。事実や歴史をしっかりと示し、それぞれが何かを感じ取ってくれればと思っています。 

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