横浜・山手の丘から眺めた焦土の街である。終戦間もない1945(昭和20)年9月5日に撮影された。
前田橋の向こう、山下公園沿いには焼夷弾(しょういだん)による類焼を免れたホテルニューグランド、遠くに大桟橋と新港埠頭(ふとう)の上屋が見える。わずか70年前の風景である。
前月8月30日に厚木飛行場に到着した連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は同ホテル近くの横浜税関で接収策を練っていたはずだ。横浜港に続々と上陸したのは進駐軍の米騎兵第1師団将兵だった。
明治維新に続く「第二の開国」の原風景である。日本の戦後の歩みは神奈川から始まったと言えよう。
47年には新憲法が施行され、51年に調印された安全保障条約により日米は強い絆で結ばれる。サンフランシスコ講和条約の発効で国際社会に復帰、主権を回復したのは52年になる。
以降の日本は、軽武装・経済重視路線をひた走り、絶後の高度成長を成し遂げた。急速な回復の下地に、旺盛な向学心と強い探求心に裏打ちされた高い技術力があったのは確かだろう。
しかし、復興をもたらした原動力は、無謀な戦争に学び、自存自衛と称し他国を蹂躙(じゅうりん)した反省と悔恨の念に他なるまい。
多くの人が等しく抱いたはずの戦前・戦中の苦い記憶を、国の繁栄と暮らしの豊かさに昇華する。踏みにじった他国の発展を経済支援という形で後押しする。それはまた、300万を超す同胞の犠牲に対する償いだったように思う。
やがて、時代は昭和から平成へ-。90年代に入り、状況は変化していく。
経済成長が鈍化し、40年間ため込まれていた社会の矛盾が露呈しだす。海外情勢も湾岸戦争、イラク戦争の後、民族対立、宗教紛争が相次ぐようになった。緊迫と混迷の度合いは年を経るにつれ深まっている。
2011年には過酷な原発事故を伴う東日本大震災が起きた。いまだに事故収束の見通しは立たず、大勢の住民が故郷を追われたままである。
軍事力に偏しない外交力を培い、エネルギーに象徴される中・長期的な基幹政策を見直す時だろう。
そして今、国の安全保障のあり方に関わる議論である。「積極的平和主義」という美辞の危うさに多くの人は気づいている。
民主主義は岐路にある。焼け野原で戦後70年の初めの一歩を刻んだ地の民だからこそ、声を大にして言わなければなるまい。