
ミナト横浜の移ろいを眺めてきた老舗がまた一つ、歴史の幕を下ろす。敗戦直後の焼け野原に店を構え、地元住民に愛されてきたパン屋「開勢堂ベーカリー」(横浜市西区戸部町)。店主の光賀(こうが)博さんが80歳を迎え、パンを焼き続けるのが体力的に難しくなった。6月末の閉店を前にその味を惜しむ常連たちが列をなしている。
高層ビルを仰ぎ見る横浜・みなとみらい21(MM21)地区の目と鼻の先、灰色の外壁に楷書で赤くかたどられた屋号が目を引く。たたずまいからしてレトロな店は博さん、ハナ子さん(77)夫妻で切り盛りしてきた。
一番人気のあんドーナツは甘さ控えめ、昔懐かしい昭和の味が愛されてきた。閉店を知って買い求める客が増え、最近では以前の約3倍、1日100個以上が売れている。
店頭のガラスケースに並ぶパンは約30種類。奥の調理場にあるオーブンやミキサーは40年以上使い続ける年代物だ。「古いから焼き加減にムラが出る。途中で鉄板の位置を変えるのが、きつくてね」。変わらぬ味を作り続けてきた自負と、それゆえ区切りをつけねばならない寂寥(せきりょう)と。腰をさする博さんが複雑な笑みを浮かべた。
前身は「開盛堂製パン所」。祖父が大正時代、現在の店から約500メートル離れた場所に開業した。戦時下に建物疎開を余儀なくされ、小学校4年生だった博さんも家族の実家がある岐阜県飛騨市へ疎開した。
敗戦翌年の1946年、父が店を再建。配給された小麦粉を同業者と分け合い、共同の調理場で食パンやコッペパンを焼いた。博さんも見よう見まねで手伝った。「砂糖もない時代。皆、甘いものに飢えていたんだ」。小麦の甘みが感じられる素朴な味わいは、横浜大空襲による焼け野原からの再出発に原点があった。
博さんが店を継いだのは30歳のころ。MM21地区には当時造船所があり、注文が入ると自転車の荷台にあふれるほどのパンを積み込み、宿舎に届けた。「いまの3倍くらい売れた。アルバイトを雇っても間に合わなかった」。夫妻で配達に走ることもあったという。
娘2人も結婚し、後継ぎもおらず、下した閉店の決断。3代続いた看板に名残惜しさはあるが、博さんは「ここまで続けられたのも、ひいきにしてくれた客のおかげ」と顔を上げる。幼少期からその味に親しんできた会社員男性(34)は「この店の味で育ったから忘れられない」とさえ言う。
5年ほど前にがんを患った際、体調を案じる家族から店を畳むよう説得されたが、常連客の「やめないでほしい」という声に「簡単に看板を下ろせないと思った」という。15年以上通い続けているという女性(70)は「夫婦の頑張りをずっと見てきた。その姿も魅力だった」と話す。
ハナ子さんが穏やかな笑みを浮かべた。「この年齢まで2人で続けてこられたことが一番うれしい」。人柄がかもす滋味もまた、人々を引きつけ続けた魅力だった。