2015年5月、沖縄本島、南の最果て荒崎海岸。足を踏み入れることを拒絶するかのようなとがった岩場が続く。
抜けるような青空、エメラルドに輝く海、70年前のあの日に感じたであろう絶望とのあまりの落差。そこへ2匹のチョウがやって来て、競うように空を舞った。目にも鮮やかなブーゲンビリアのまわり、黄色い羽を揺らし、自由を謳歌(おうか)するように。
きっとひめゆり学徒たちも、どこへでも飛んで行ける羽を持つチョウに生まれ変わったのだ-。
そう願いたかった。
1945年の沖縄戦当時17歳、沖縄陸軍病院に従軍した元ひめゆり学徒の津波古(つはこ)ヒサさん(87)が振り返る。
「歌っているときはすべてを忘れることができた」
そのときだけ、人間らしい感情を取り戻すことができた、といってもよかった。
米軍が本島中部から上陸した4月1日以降、運び込まれる負傷者は急激に増えていった。配属されたのは内科だったが、外科の医師が来て手術を行うようになった。
施術は米軍の攻撃が収まる夜。麻酔がなく、エーテルをかがせて脚を切断した。手術が終わるか終わらないかで目が覚め、激痛で暴れる。体ごと押さえつけるのが役目だった。「切った腕や脚は砲弾が落ちてできた穴に投げ捨てたんです」
増えていく重病患者。「学生さん、学生さん」と呼ぶ声はやまない。2人で約60人の患者をみていた。水を運び、排せつの手伝いをし、傷口にわくウジを取り除いた。やることが途切れず、「まともに寝た記憶がない」。堅い木でできた2段ベッドの上下に7、8人がひしめき合い、座ったまま死んでいる人もいた。
腕や脚を放り込んだ穴に死体も積み上がっていった。怖い、悲しい、つらい、と感情が湧く時間もなかった。重傷患者は4、5日で息絶えた。「麻酔なしで脚を切られても、手術してもらえるだけましだと考えるようになっていた」
痛みにうめく声が響き、汗や排せつ物、薬品のにおいが混然となった壕(ごう)。学徒たちを励ましたのは、卒業式で歌えるようにと作られた「別れの曲(うた)」。女学生の歌声は負傷兵の心も癒やした。北海道から来た兵士が見たことのない雪の話をしてくれたこともあった。
戦火が激しくなり、病院壕を後にすることが決まった5月下旬、脚を失い歩けない兵士に粉ミルクを水で溶いたものを与えようとしていた将校を目にした。
「手伝いましょうか、と声を掛けたら、『まだ残っているのか』と怒鳴られて」
飲ませようとしていたものが青酸カリ入りのミルクだったことをのちに知るのだが、ただならぬ空気に身の危険を覚えた。看護実習で「私たちは生かしもするが、いざというときは殺しもする」と教わったのを思い出した。
「捕虜となり生き恥をさらすな」の教えは、一方で捕虜をスパイ視する軍の恐慌の裏返しでもあった。米軍の砲弾が降り注ぎ、日本軍も自分たちを守ってはくれないかもしれない。どこにも救いがない逃避行が始まった。ふと前を見ると兄の岸本幸安さんの姿が目に入った。教師だった兄も病院壕に動員されていて、生徒を引率していた。
「見たことを兄に話すと『一生黙っていろ』ときつく言われて。『知れたら軍法会議になるぞ』と怖い口調だった。だから戦争が終わっても、しばらく口外できなかった」
真っ暗な道をとぼとぼと歩く。はぐれないように「別れの曲」を歌いながら。
〈何時(いつ)の日か 再び逢(あ)わむ〉
大分に疎開した家族に、いとしい友に。心の中ではもう二度と会えないのでは、という思いがよぎった。涙が頬をつたった。
そして6月18日に下った解散命令。軍とともに行動してきた学徒たちは「あとは自分たちの考えで動くように」と砲弾が飛び交う中に放り出された。
あてどなくさまよい、たどり着いた荒崎海岸。すり減った靴裏に鋭くとがった岩肌が刺さる。脚がない、顔がない。転がる死体の合間を進んでいく。血肉でぬかるむ足元。どこへ行けばいいのか。目の前に広がる海原に最期が遠くないことを悟った。
「ここで終わるのか」
家族や友人らと過ごした穏やかな日々がよぎり、口ずさんだ「ふるさと」。
〈いかにいます 父母 つつがなしや 友がき〉
国のため志を果たさんと奮い立たせてきた心は折れ、か細い歌声となって思いがこぼれ出た。
「家族に会いたい」
胸を覆う悲しみが声を震わせた。見上げた月は涙でにじんでいた。
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人と引率した18人の教師からなる「ひめゆり学徒隊」。3月末から解散命令までの約90日間、19人だった犠牲者は解散後から沖縄戦終結までのわずかな日々で100人余に膨れ上がった。
荒崎海岸からさらに北東に約9キロ進んだ具志頭(ぐしちゃん)の岩間に身を潜めているところを米兵に見つかり、捕虜となって生き延びた津波古さんは言う。
「人が人を殺す。人が人でなくなる。それが戦争」
自分さえも大切にできなくなっていた。壕の外にある炊事場へ行き、食事の支度をする「飯上げ」と呼ばれた仕事をいまも思い出す。しょうゆだるに炊いた米を入れ、担いで急坂を戻る途中、至近弾に襲われることもしばしばだった。
「爆風で土が飛び散る。土がたるに入ったらご飯が無駄になるからと、弾が落ちたらたるの上に体を覆いかぶせて守ったの。命が一番大事なのに、おかしいでしょう。でも一つのたるしかもらえなかったから、駄目にしちゃいけないって」
再び荒崎海岸。慰霊碑「ひめゆり学徒隊散華(さんげ)の跡」が、行き場を失い、軍から配られた手りゅう弾で自死を選んだ学徒たちを悼む。
それは決して遠い過去では、ない。人を寄せ付けない荒磯の岩場で2009年2月、学徒が誇りとしていたユリが描かれた校章が見つかっている。