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歌えじの曲(うた)
ひめゆり学徒の記憶(上) 出陣告げた卒業式

社会 | 神奈川新聞 | 2015年6月22日(月) 09:41

沖縄戦の1年前の卒業式。はかまで着飾るのが生徒たちの夢だった(ひめゆり平和祈念資料館提供)
沖縄戦の1年前の卒業式。はかまで着飾るのが生徒たちの夢だった(ひめゆり平和祈念資料館提供)

 海のにおいがする風が入り口に立つ想思樹(台湾アカシア)の葉をさわさわと揺らした。白壁に赤い瓦屋根が懐かしい学舎(まなびや)を思わせる。沖縄県南部、糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」。犠牲者20万人、沖縄戦の悲劇を語り継ごうとひめゆり学徒隊の生存者たちが建て、運営する。

 第4資料室。ほほ笑むおかっぱ頭の少女がいて、口を固く結んだ教師がいる。四方の壁を埋めるモノクロームの遺影。照明が絞られ、墓地を思わせる室内に清らかな歌声がレクイエムのように響いていた。

 「別れの曲(うた)」

 戦火が迫る中、生徒たちのために作られた卒業歌だった。



 
 証言員として体験を語り続ける津波古(つはこ)ヒサさん(87)は当時、沖縄師範学校女子部本科1年生。動員で沖縄陸軍病院に従軍し、負傷兵の看護に当たった。

 「正義のために戦うと教わっていたけれど、戦争を体験し、正義の戦いなどないのだと伝えたい。授業を受ける、教科書を追うだけだけでは残らない。話を聞いて感じ、想像してほしい」

 胸に刻まれた、生き延びたという負い目。「同級生が死んだとき、友を送るため包帯を縫い合わせて着物をこしらえたの。でも、それも最初だけ。患者が増えてからは友だちが死んだと聞いても飛び出す余裕もなくなってしまったの」

 未来を、将来の希望を、疑うことなく過ごしていた日々は確かにあった。

 まとうセーラー服は憧れの的だった。おかっぱ、三つ編みと学年によってヘアスタイルを変え、寮生活では美人コンテストもあった。弓道やバスケットボールと運動にも汗を流し、教師との恋愛を描いた石坂洋次郎の小説「若い人」に胸をときめかせた。

 おしゃれと恋に興味を持つ、いまの若者と変わらぬ時間。戦火はしかし、そのにおいをさせぬまま近づいてきた。1941年ごろからセーラー服が簡素なヘチマ襟の上着に変わり、やがてもんぺになった。皇民化教育の徹底で思想を養う機会が減り、植え付けられた「八紘一宇(はっこういちう)」の精神。ペンを銃に持ち替え、射撃訓練に励んでいった。


ひめゆり学徒の生存者として体験を語り続ける津波古ヒサさん
ひめゆり学徒の生存者として体験を語り続ける津波古ヒサさん

 「別れの曲」ができたのは、沖縄戦が始まる約3カ月前の45年1月だった。

 作詞は福島県郡山市から高射砲隊に配属された太田博少尉。詩や短歌をたしなんでいたこともあり、陣地構築に駆り出されていたひめゆりの女子生徒に「相思樹の歌」を贈った。これに音楽教師の東風平(こちんだ)恵位(けいい)先生が音符をつけた。

 〈目に親し 相思樹並木〉
 〈学舎の 赤きいらかも〉

 教壇に立つことを夢見て友と机を並べた日々が浮かぶ歌詞、賛美歌のような聡明(そうめい)な調べが乙女たちの心を熱く震わせた。

 津波古さんは「『私たちの曲ができたの?』と感激しました。卒業式では『蛍の光』を歌っていましたが、外国の歌(蛍の光の原曲はスコットランド)は駄目と言われていたから。来年の卒業式ではこの曲を歌おうってみんなで練習に励んだのです」

 3月23日の動員命令がすべてを変えた。米軍の空爆と艦砲射撃が始まったその日の夜、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人は18人の教師に引率され、南風原の沖縄陸軍病院へ向かった。

 「すぐに学校に戻れると信じていた」と津波古さんは振り返る。着いたのは病院とは名ばかり、手掘りの薄暗い壕(ごう)。看護の訓練を受けてはいたが、血まみれの兵士を前にして足がすくんだ。

 29日夜、2本のろうそくの灯が揺れる三角兵舎の中で卒業式が行われた。卒業証書も教員免状もなく、「別れの曲」も校長に「不謹慎だ」と許されなかった。歌ったのは、天皇のため死をささげんと誓う軍歌「海ゆかば」。

 〈海ゆかば 水漬く屍(かばね) 山行かば 草生す屍〉
 晴れやかな門出とはほど遠い、出陣ムード。やり場のない思いを吐き出すように壕へ戻る道で別れの曲を大声で歌った。

 3日後、米軍は本島中部の西岸から上陸を開始した。破局は目の前に迫っていた。

 1989年の資料館開館当初は27人いた証言員もいまは9人。年齢も80代後半が多くなった。経験を未来にどうつないでいけばよいのか。

 津波古さんはその姿に恩師の面影をみていた。2010年、資料館を横浜市出身のバリトン歌手・平林龍さん(37)が訪ねた。津波古さんの体験談を聞き、平林さんはシベリア抑留兵の記憶をもとに譜面を書き起こした「春は来ぬ」を歌っていること、同じように沖縄の歌を歌いたいと思っていることを告げた。

 「熱心に話す様子が東風平先生に似ていたの」。世情が戦争一色に染まりゆくなか、希望に満ちた曲を書いてくれた恩師は志半ばで戦火に命を落としていた。津波古さんは「私たちひめゆりにも平和への思いを込めた曲はあるのよ」と別れの曲を収録したCDを手渡した。

 「自分にできるのは曲に込められた思いを歌い継いでいくこと」と話す平林さんは思いをめぐらす。「〈再び会わむ〉と歌いながら、会うことがかなわなかった悲しさ、〈幸多かれと〉と願いながら幸せとはいえなかった現実をどう受け止めていたのだろう」

「別れの曲」  作詞・太田博  作曲・東風平恵位

一、目に親し 相思樹並木
  行(ゆ)き帰り 去り難けれど
  夢のごと とき年月(としつき)の
  行きにけむ 後ぞくやしき
二、学舎の 赤きいらかも
  別れなば なつかしからむ
  わが寮に 睦(むつ)みし友よ
  忘るるな 離(さか)り住むとも
三、業(わざ)なりて 巣立つよろこび
  いや深き 嘆きぞこもる
  いざさらば いとしの友よ
  何時(いつ)の日か 再び逢(あ)わむ
四、微笑みて 吾(われ)ら送らむ
  過ぎし日の 思い出秘めし
  すみまさる 明るきまみよ
  健やかに 幸多かれと
  幸多かれと




 沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」が23日、めぐってくる。歌えなかった「別れの曲」からひめゆりの記憶をたどり、戦後70年のいまを見詰める。



平和を願う折り鶴や文章が寄せられている
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