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安政期、津波からたいまつで避難誘導
稲むらの火精神継ぐ 昭和南海地震70年

社会 | 神奈川新聞 | 2016年12月22日(木) 10:56

安政南海地震の津波の状況を描いた絵図を前に、避難の教訓を語る崎山さん=和歌山県広川町の稲むらの火の館
安政南海地震の津波の状況を描いた絵図を前に、避難の教訓を語る崎山さん=和歌山県広川町の稲むらの火の館

 最後の南海トラフ巨大地震である「昭和南海地震」から21日で70年となった。当時の体験を語れる人は徐々に少なくなっているが、津波被災地の一つ和歌山県広川町には、時を超えて共有されるべき津波防災の先例がある。昭和南海の92年前の「安政南海地震」で、たいまつを使って村人の避難を助けた実話「稲むらの火」。その経験が昭和の被害を減らしたと伝えられ、伝承に基づいた避難の精神を改めて根付かせようとの動きが広がっている。

 伝承の舞台となった広村(現広川町)は紀伊半島西部にあり、現在の県都・和歌山市から南へ約40キロに位置。主人公の濱口梧陵は1854年の安政南海地震当時、地元の有力者だった。

 夕刻、大きな揺れに見舞われた梧陵は津波の危険を察知。逃げ遅れた人を誘導しようと、たいまつの火を道ばたの稲わらに付け、多くが逃げ込んだ神社への道しるべとした。36人が亡くなったが、梧陵はその後、炊き出しを行い、将来の津波から村を守るための堤防の築造にも私財を投じて、生活の糧を失った村人を雇った。

 4年がかりで完成した長さ約600メートル、高さ5メートルほどの「広村堤防」は、昭和南海の津波から村を守る役割を果たし、国指定史跡として今も残る。近くには濱口家の邸宅を改修した「稲むらの火の館」が2007年に開館し、伝承を発信している。

 2年前に館長に就いた崎山光一さん(67)は言う。「梧陵が堤防を築いたのは、津波の恐怖から古里を離れようとする村人をつなぎとめ、村を守る狙いがあった。記録によれば、このまちには安政や昭和を含め大きな津波が8回あり、襲われるたびに住む人が減っていた。梧陵はその歴史を知っていたのだろう」

 崎山さんはかつて町教育委員会で社会教育を担当。語り部の養成講座で郷土史をさらに学んだ04年の暮れ、インドネシアなどで22万人が死亡するスマトラ地震大津波があり、梧陵の逸話に注目が集まった。

 観光バスなどで堤防を訪ねる観光客が増え、案内を重ねているうちに東日本大震災が発生。前後して「稲むらの火」が小学校の国語の教科書などに載るようになり、防災教育にも生かされるようになった。さらに安政南海の起きた11月5日(旧暦)は今年から「世界津波の日」となり、津波の苦難を知るインドネシアやチリなどから見学に訪れる人が相次いでいる。

 寄せられる関心の高さを肌で感じつつ、崎山さんは実感を込める。「このまちの人が伝承の意義を見直すきっかけになっている」。堤防を維持するための祭りは100年以上続き、夜にたいまつの火をかかげて避難の大切さを確かめる新たな行事も根付いている。

 一方、地元では「直近の昭和南海のことでさえ、語れる人が少なくなった」。崎山さん自身も経験はしていないが、注目すべき証言があるという。「避難するときに道端の田んぼの稲わらに火が付けられていたと聞く。梧陵の話を思い出した人がいたのだろう」。しかし、「もう田んぼはほとんどない。避難の条件は今の方が悪い」と教訓を生かす難しさも感じている。

 崎山さんは「昭和南海の津波で亡くなった22人のうち18人は紡績会社の社宅住まいの人だった。この地域の危険性を知らなかったに違いない」と指摘。「だからこそ過去の災害を語り継がなければ」。そう自らを奮い立たせている。

昭和南海地震 1946年12月21日午前4時19分ごろに発生したマグニチュード(M)8・0の巨大地震。死者・行方不明者は1443人。震源は紀伊半島南端の潮岬南方沖で、九州から房総半島南部にかけて押し寄せた津波の被害が大きかった。より東側の海域で2年前の44年12月7日に発生したM7・9の「昭和東南海地震」に連動したとみられている。

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