
米軍の無差別爆撃で多くの人が亡くなった横浜大空襲から29日で70年を迎えた。横浜市中区の大通り公園にある平和祈念碑では、内部に納められている約千人の犠牲者名が刻まれた銘板が公開され、訪れた遺族や空襲体験者らが手を合わせていた。
妹を失った丸田優子さん(86)は「逃げる途中ではぐれてしまった妹を守れず、今も悔やんでいる。平和の尊さを次の世代に伝えたい」と涙ぐんだ。近くにある市立南吉田小や横浜吉田中の児童、生徒も花を供えに訪れ、平和な世の中に思いをはせた。
米軍爆撃機による無差別爆撃は1945年5月29日午前9時20分ごろから約1時間続き、市街地は焼夷弾に焼かれ、県のまとめでは死者3649人、負傷者1万197人。ただ実態は不明で死者は8千人以上ともいわれている。
横浜大空襲から70年を迎えた29日、横浜市中区の大通り公園にある平和祈念碑の前で子どもたちを見守る教員の姿があった。地元の横浜市立横浜吉田中の藤宮学教諭(49)。教える立場の自身も戦争を体験していない世代。生徒と並んで祈りをささげ、平和の尊さを伝える使命の重さをかみしめた。
生徒会役員の3人に付き添い、祈念碑の前で一緒に手を合わせ、遺族から碑の由来について説明を受けた。
犠牲者名や没年齢が刻まれた銘板を眺め、生徒の一人は「同い年の子の名前があった。どんな思いで亡くなったのか考えると、胸が痛む」と話した。藤宮教諭は「少しは身近に感じ取ってくれているのだな」とうなずいた。
自分たちが暮らすまちが見舞われた戦禍をテーマに授業を重ねてきた。26日には空襲体験者である元高校教諭、石原洋二さんを招いて講話をしてもらった。石原さんは藤宮教諭が教員1年目で赴任した学校の副校長。体験者であったことを思い出し、講話を依頼したのは5年前のことだった。
悩みながら教壇に立っていた。「戦争を体験していない世代が知識を教えても、生徒には響かない」
大先輩から語られる戦争の悲惨さや街の惨状は自身にとっても響くものがあった。「身近な場所や身近な人から体験を聞くのが一番響く。沖縄や長崎、広島のことばかりではなく、もっと自分たちの足元を見詰めるべきだ」
生徒とともに学ぶ姿勢も教室に変化をもたらした。「体験者の証言は教科書や資料にない話も多い。教師でも知らないことがあり、自然と学ぼうという気になる」。教諭向けの資料も作成し、配布した。講話翌日の27日にあるクラスで担任教諭が感想を口にすると、多くの生徒が自発的に発言したという。
大空襲から70年。この日、居住まいを正し、生徒たちが口にした言葉を藤宮教諭は信じる。
「ここで戦争があっただなんて思わなかったけれど、少し実感を持って学べた」「体験者はつらいことを一生懸命話してくれた。思いをしっかりと受け止め、さらに学んで、自分なりに伝えていきたい」
自身の思いでもあった。その手には石原さんから譲り受けた数百ページに及ぶ資料の重みが残って消えない。
「ずしりとくる資料の重さに、使命の重さを感じる。体験者がいなくなった時代のことを考えると焦りもあるが、今はただ、われわれもしっかりと学ぶしかない」


