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刻む2016〈3〉東日本大震災5年 「終わりなき復興」へ

社会 | 神奈川新聞 | 2016年12月18日(日) 11:24

首都圏最大波襲来の時間に合わせ黙とうする被災者や住民=3月11日午後5時26分、千葉県旭市
首都圏最大波襲来の時間に合わせ黙とうする被災者や住民=3月11日午後5時26分、千葉県旭市

 笑みを浮かべていたが、少なくとも歓迎の意を示してはいないようだった。

 「復興に向けた取り組みの取材に来ています」。そう言って私が差し出した名刺を胸ポケットにしまうと、その男性は特に言葉を返すこともなく、傍らの人と話し始めた。

 東日本大震災の津波で、首都圏最大の被害が出た千葉県旭市。発生から5年という大きな節目を控えた今年2月下旬の土曜、新たな集客スポットとしてにぎわう「道の駅」で地元の高校生を取材している時、同市の明智忠直市長に偶然会った。

 平服で随行の職員も見当たらなかったから、公務ではなかったと思う。そうした場で、顔なじみではない記者の問い掛けに応じる義務は必ずしもないが、その対応には「復興の途上」という切り口でわがまちを捉えてほしくないという思いがにじんで見えた。誤解を恐れずに言えば、「復興はもう済んだことだ」と。

 それは毎年2~3月の市議会定例会で述べる新年度の施政方針に表れていた。

 2012~15年度の4年間は真っ先に「哀悼」や「震災からの復興」を表明したが、今年は地方創生の総合戦略を最初に取り上げた。復興への言及は少なく、「復興計画に位置付けた125の施策について、市民と行政が心を一つにして取り組み、計画期間の最終年度である平成27年度の飯岡中学校の移転改築をもって、ほぼ計画通り実施することができました」などとしていた。

 確かに、教訓を生かした津波避難タワーが各所に建ち、内陸移転した中学校のそばには、自力再建が難しい人を対象とした災害公営住宅が14年春にいち早く完成した。住民が反対するような巨大防潮堤が築かれるわけでも、長い時間のかかる集落の高台移転が進められているわけでもない。

 結果、被災の痕跡をとどめた場所は少なくなり、まちを根こそぎにされた東北沿岸部のような光景は広がっていない。

 だからこそ地元NPOが中心となり、「あの日」の苦い経験を語り継ごうと、被災者への聞き取りや被災現場の見学会を続けている。そうした地道な取り組みを追い掛け、報じてきた。

 折に触れ、NPOのメンバーからは市に対する不満が漏れた。「復興をばねにしたまちづくりなんて進んでいない。このままでは人口減少がさらに進み、衰退するばかりだ」「震災の教訓を本当に引き継いでいこうとしているのだろうか」

■分断

 

 津波に襲われた海辺の家々は解体され、跡地には雑草が生い茂る。「人口減は全国的なもので震災前から進んでいるし、震災が原因でさらに加速したかどうかは何とも言えない」。市の担当者は認めなかったが、統計をたどると、被害の激しかった海辺の飯岡地区は周辺より人口減のペースが速いことが明らかだった。ある地元住民は、住まいとあるじのいなくなった土地を見つめ、嘆息した。「海から吹く風が強くなった」

 表向きの「復興」と、表裏一体の「苦境」。他県からの決して頻繁ではない取材で、その内実にどれほど迫れているか。問われれば自信はないが、それでも足を運んでいると、地域を覆う微妙な格差やずれが見えてくる。そもそも同じ海辺でも、通りが一本違えば、津波に全く遭遇していないという人が少なくない。

 復興のあり方を巡って人々の思いはすれ違い、時を経てもボタンの掛け違いを直すのは難しい。財政事情や法制度、個人の意思や財力などさまざまな要素が絡み合い、皆が同じ方向を向くというわけにはいかない。吹聴されがちな「絆」とは対極にある、こうした地域の分断こそが被災の真実なのだろう。

 だから、例えば5年という節目や公共事業が完了したタイミングで、復興を果たせたとはとても言い切れないはずだ。1995年の阪神大震災で倒れてきた家具の下敷きになりそうになり、どうにか生き延びた主婦は20年を経てなお「復興したかどうか私には分からない」と本音を明かした。

 災後を報じるとき、地方のメディアは軸足をどこに置くべきなのか。被災者の視点は最も重要だが、一方で行政の事情を軽視してはバランスを欠く。

 山から切り出した土砂を巨大なベルトコンベヤーで運び、海沿いの低地をかさ上げするという壮大な復興事業に取り組んだ岩手県陸前高田市。2015年夏、高台の仮庁舎に全国から集まった地方紙記者を前に、戸羽太市長は語気を強めた。「被災地報道というものは少なくとも、どうしたら被災地の抱えている問題を解決できるか、そのために報道がどういう役割を果たせるのか、という視点でやっていただきたい」

■実相 


 丸5年となった今年3月11日、旭市には多くの全国メディアが取材に訪れた。海に向かって黙とうをささげる被災者が新聞各紙に取り上げられたが、その中に気になる記述があった。同市の被害について、津波による犠牲者数を「16人」としていたからだ。

 同市に最大波が押し寄せたのは、11年3月11日午後5時26分。マグニチュード(M)9・0の本震から2時間半以上も過ぎた後の第3波だった。地震直後にいったんは避難したものの、油断して自宅に戻った人々が次々とさらわれ、13人が死亡、2人が行方不明となった。

 つまり津波による直接的な犠牲者数は「15人」のはず。もう一人は災害関連死として後に認定された犠牲者であるのだが。

 念のため確認をと思い、発生当時から取材を重ねている千葉日報の記者に電話すると、「確かに間違いですね。各紙、担当記者が異動で代わっていますから、当時の状況を知らないのだと思います」。

 すっかり小さくなった市のウェブサイトの「東日本大震災関連情報」の欄は、死者14人、行方不明者2人としか表記しておらず、直接死か関連死かの内訳までは明示していない。この数字を引用するだけでは被災の実相には迫れず、本質を見誤る。それは見つめ続けなれば、動かぬ事実さえ時に誤って伝えかねないということを示している。

 戸羽陸前高田市長はこうも言っていた。

 「忘れられてしまうと、被災地の人たちも頑張りがきかない。報道してくれないと、忘れられる速度が加速していく。そうしたら、このまちは復興できるだろうか」

 震災から間もなく6年。報じ続ける意味をかみしめつつ、「終わりなき復興」に向き合い続けたい。

 
 

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