■「俺は朝鮮人」の叫び
まだ細い、震える少年の背中を見つけたのは昨年11月、怒号飛ぶJR川崎駅前の喧噪(けんそう)の中だった。
その日、在日コリアンの排斥を唱えるヘイトスピーチ・デモが駅前の目抜き通りで行われていた。「朝鮮人を日本からたたき出せ」と気勢を上げる一団に沿道から罵声が浴びせられた。
「差別をやめろ」
「おまえらは日本の恥だ」
「差別主義者は帰れ」
デモに抗議するカウンターと呼ばれる人たち。その最後列に少年はいた。
15歳。横浜駅のほど近く、神奈川朝鮮中高級学校に通う在日朝鮮人3世。
思わぬところでその姿を目にし、胸に苦いものが込み上げてくるのを私は感じていた。
■恐怖
知り合ったのは、その1カ月前のことだった。課外授業で神奈川新聞本社に私を訪ねて来た。ヘイトスピーチの問題や朝鮮学校を取材している新聞記者の話を聞いてみたい、とのことだった。
どうして在日コリアンの問題に関心を持つようになったのか、といった質問に一通り答え、私は逆取材してみた。
「みんなが通う朝鮮学校は無償化から除外され、補助金も打ち切られている。どう感じていますか」
こう答えた。
「日本で暮らす朝鮮人は孤独なんだなと感じ、さみしいです」
自分の言葉で心の内を率直に語る真っすぐさが印象的だった。
後日連絡を取り、川崎のデモのことを聞いた。
-デモの現場に行くのは怖くなかったですか。
「いいえ。どんなことを言っているのか確かめてやる、と後輩1人を誘って向かいました」
-参加している人たちの顔は見えましたか。
「中年のおじさんの顔が見えました。ニヤニヤ笑っていました。私の親と同年代でしょうか。カウンターから『帰れ、帰れ』と怒鳴られているのに、こちらに手を振っていて。大の大人が、とても幼稚に思えました」
-あなたは大声で叫んでいました。何と。
「カウンターの人たちと一緒に『早く帰れ』と。それから…」
-それから。
「朝鮮人をバカにするな、と言いました」
-朝鮮人と口にするのは怖くなかったですか。
「怖かった、です。彼らは朝鮮人をゴキブリ呼ばわりし、たたき出せと言っている。人間扱いじゃない。だからひょっとすると殺されかねない、と。あの場に行くのは怖くなかったけど、やっぱり何も言わないでおこうかなと頭をよぎりました。でも…」
-言わずにはいられなかった。
「はい。これまでもいろいろなことがあったから。おまえたちが差別している朝鮮人はここにいるぞ、と知らせたかった」
■誇り
ためらいながら、しかし叫ばずにはいられなかった「俺は朝鮮人だ」。これまでもあった「いろいろなこと」。
自身の民族に目覚めたのは、小学校に当たる横浜朝鮮初級学校の高学年の頃だという。
北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験を実施したとニュースで報じられ、日本人の小学生から「ミサイル学校」とからかわれた。「もちろんけんかになりました。親とか周囲の大人の影響があるのでしょうが」
ゴールキーパーを務めるサッカーチームは弱かった。「負けて落ち込んでいるところに、相手から『キムチくせえ』と言われて、さらに情けなかった。僕らは人数も少ないから弱いし、自分たちはそういう存在なのだ、と思い知らされているようでした」
祖父は日本の植民地支配下にあった朝鮮半島からやって来た。戦後は廃品の解体業で生計を立て、両親は焼き肉店を経営する。
祖父は母校の1期生。やはり朝鮮学校を出た父に昔話をせがんだ。
「日本の高校生としょっちゅうけんかをして負けたことがなかったこと。部活では公式の大会に参加できなかったから、代わりに練習試合で徹底的に打ち負かしたこと。朝鮮人は強い心と威厳がなくちゃ駄目だと父は繰り返し話してくれました」
誇張もあったかもしれぬ武勇伝を胸いっぱいに吸い込み、ようやく芽生えた誇り。
「でも、僕らはけんかはしない。仲良くしようと日本の学校と交流している。過去の歴史だって共有したい。でも、ああいうデモを見るとやっぱり難しいのかなと思ってしまう」
■視線
再びデモの回想。
-カウンターの人と話をしていましたね。
「実は僕、在日なんですと打ち明けると、あんな差別主義者は私たち大人が退治するから、と言ってくれた。涙が出そうなくらいうれしかった」
-それから。
「僕らに罪はないんですと言いました。拉致事件のことです。日本に住む在日とは関係ないし、僕らだってあんなことをした北朝鮮はひどいと思っている。それは信じてください、と」
-なぜ、わざわざ拉致事件を。
「差別している人たちは事件を口実にひどいことを言っている。僕らを味方してくれている人の中にも、拉致と在日を結びつけて疑っている人がいるんじゃないかと思ってしまうのです」
実際、朝鮮学校の無償化からの除外、補助金打ち切りの理由として閣僚や自治体の長の口から拉致問題が語られる。
寄り添おうとしてくれている人にさえ、弁明するように「信じてください」とすがらねばならない現実。それはまた、日本社会から受けるまなざしをどう感じているかを映し出してもいた。
「殺されかねない」の一言はだから、大げさに言っているわけではなかった。
「関東大震災で朝鮮人はデマがもとで虐殺されました。普通に暮らしていた近所の人たちによって、です。しかもいま、虐殺はなかった、正当防衛だという人までいる」
知り合いの日本人の顔を思い浮かべてみる。サッカーで声が掛かった選抜チームの監督や塾の先生、近所のよくしてくれるおばちゃん。「あの人たちがかつてのようなひどいことをするとは思えない。でも、それは顔が見える関係があるからだ」
在日が日本で生活しているのも日本が朝鮮半島を植民地支配した結果だ。土地を奪われ、働き口を求めた1世たちが海を渡った。「当時から差別があり、ひどい環境で働かされ、人間扱いではなかった。学校ではそう習った。それが反日教育と言われる。では日本の学校ではどう教えているのか」
もう一度、聞く。
-朝鮮人はここにいるぞと知らせたかった。それはどういう思いからでしたか。
「15年間、朝鮮人として生きてきて、この先もそれは変えられない。そういう人間がここにいるんだ、と」
「俺は朝鮮人だ」の叫びは、デモの参加者だけに向けられたのではなかった。在日という存在に無知で目の前を素通りしてゆく、物言わぬその他大勢に向けられたものでもあるに違いなかった。
そう思い至ったとき、私の中に込み上げてきたものの輪郭がくっきりと浮かび上がってきた。ある苦い記憶とともに。
◇
在日3世の少年との出会いを通じ、戦後70年の節目にヘイトスピーチの問題と向き合う意味を考えた。
【神奈川新聞】