
がれきに立てられた段ボールの切れ端が、なすすべもなく絶たれた命を周囲に知らせていた。
〈ここに1人います〉
目に焼き付いたその光景とともに思い出す線香の臭いは、廃虚と化した街に漂っていたものだ。いや応なくよみがえる災禍の記憶。だから家に閉じこもり、テレビも見ないようにした。
神戸市内最多、1400人余りの犠牲者が出た東灘区。喪失感を抱きながら災後の日々を過ごしてきた秦詩子(69)にとって、それが毎年訪れる節目の過ごし方だった。命をつないだ家族同士の会話でさえ、あの日を振り返りはしなかった。何より自分の心がつぶれていた。
1995年1月17日午前5時46分。住んでいたのは、10階建てマンションの6階だった。突然の激しい揺れに驚いたが、パニックにはならなかった。「一瞬で辺りが真っ暗になり、何も見えなかった」からだ。
「暗闇というものを初めて知った」秦は、そばのアパートから駆け付け、玄関のドアを激しくたたく長男の叫び声で何が起きたかを知る。「早く逃げないとこのビルが倒れるーっ」
月明かりを頼りに階段を下りると、1階がつぶれ、マンションは傾いていた。寝ていた部屋では和装だんすが倒れていたが、偶然開いた扉が支えとなって床との間に空間が生まれ、布団の中でうずくまっていた秦は下敷きにならずに済んだ。紙一重だった。
逃げ出すときに履いた靴に入っていたガラスの破片が足の裏に刺さり、血が出ていることに気付いたのは、1週間以上も後。とにかく命をつなぐのに必死だった。
近くを走る阪神高速道路は横倒しになり、阪神大震災の象徴として報じられていた。
■言葉 全壊と判定されたマンションには住み続けられなくなった。車で1週間過ごした後、キャンプ用のテントを公園に張って寒さをしのぐ生活が始まる。
収まらぬ余震の中、主婦たちが倒壊の恐れもあるマンションから米を持ち寄って始めた炊き出しには、長い列ができた。配り終えると、自分たちの分は残っていない。鍋の底を見つめると、わずかな残り汁に砂が混じっていた。火を見守る役だった秦は1週間以上風呂に入れず、ようやく洗髪できたときには墨汁のような黒い水が滴った。
ふとわれに返ると、涙があふれ叫びたくなる。だから「1人になるのはやめようね」が合言葉だった。「みんなで寄ったら、笑っていられる。笑っていないと、乗り越えられない」
パジャマの上に着込んでいたのは、見知らぬ人が渡してくれたジャンパー。着替えもままならない日々が続き、届いた救援物資の段ボールにわれ先にと群がると、目に涙をためた友人に「みんな、プライド持ちよー」と、とがめられた。自分が情けなくなり「人間には捨ててはいけないもの、忘れちゃいけないものがある」と気付かされた。
「大切なのは人のつながり。人間のいい面ばかりじゃなく、悪いところもいっぱい出る。それが震災」。実感を込める秦が1月17日に家から出られるようになったのは、10年以上が過ぎてからだった。
■役割 迎えた20年の節目に、秦は思う。「目に見えるところは復興したけれど、誰かの死に接した人の内面や見えないところは復興していないし、これからもきっとそれは変わらない。人は死んで終わりじゃない。生きている人にいろんな思いを残す」
苦難を伝える語り部として各地に出向くようになったいま、自分の役割をこう見定める。「生き残ったのだから、人の役に立てということなのでしょう。1人でも2人でも私の話を聞いてくれる人がいるなら、自分を奮い立たせて語り継いでいきたい」
15日、川崎市中原区のホール。壇上でマイクを握った秦は、しかし苦しい胸の内を吐露した。
「もう平気だと思っていたけれど、あちこちで20年、20年と言われ、いろんな企画があると、やっぱり以前に戻ってしまう。なかなか消え去るものじゃない」
続く地元の防災関係者を交えたシンポジウムで、震災時の状況を再現した映像が映し出されたときには別室で待機し、目にしないようにした。
■遺構 重ねた歳月を日数に換算すれば、7305日。だから20年はあくまで通過点であり、節目ではない。変わらず続く「被災者の日常」にこそ目を向けるべきだと訴える人がいる。
神戸市垂水区の現代美術家、三原泰治。風化を防ぐ試みは「その時代に生きた証しとして、最低限しなければならないこと」との思いが強い。
自宅が半壊となった自らの被災体験を語るのではなく、物言わぬ遺構にその役割を託す。「形あるものは風化しない。でも、慰霊碑やモニュメントでは伝わりにくい」
大火に見舞われて焦土と化した長田区で、焼けずに残った市場の防火壁があった。戦火をもくぐり抜けたというその壁に心を動かされ、「神戸の壁」と命名。がれきが次々と撤去されていく中、何とか保存をと持ち主や行政に掛け合った。
運動は実り、明石海峡を渡った淡路島に移築。地表に現れた野島断層のそばで公開されている。
「壁が残ったのは奇跡でも人徳でもない。言ってみれば文脈や」。そう振り返る三原は問い掛ける。「震災は悲しいだけじゃない。真実を見たこの壁に触れ、得た教訓をもう一度みんなで感じ取らなければ。大事なのは、未来につながっているかどうかだ」
=敬称略
【神奈川新聞】
