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「静かに見守りたい」 複雑な思いの遺族
無くならぬ米軍機事故 愛の母子像が建立30年

社会 | 神奈川新聞 | 2015年1月17日(土) 03:00

港の見える丘公園に立つ「愛の母子像」 =横浜市中区
港の見える丘公園に立つ「愛の母子像」 =横浜市中区

 母が2人の幼子を抱いた「愛の母子像」が横浜市中区の港の見える丘公園に建立され、17日で30年を迎える。横浜の市街地に墜落した米軍機によって命を奪われた土志田和枝さん=当時(31)=と愛息2人の冥福を祈って建てられた。事件からは38年を数え、和枝さんの兄隆さん(66)は複雑な思いを吐露する。「安らかに眠らせてあげたい。でも事件の風化は防ぎたい」

A4サイズのノートには「愛の母子像を作る会」という表題が記されていた。2008年に他界した父勇さんがつけていた日記。30年前、1985年1月17日はこう書かれていた。

〈1/17(木)晴 愛の母子像除幕式 3時半に目をさました。妻がもう起きて、キッチンで何かをやっている。こんな早い時間に何をやっているんだと、のぞき込んだら赤飯をたいていた。今日の除幕式のため、早起きして、お祝いのためだと言った。私はまだ早過ぎるので、フトンへ又入り、今日のことを巡らした。三年間一途に今日の日のために動いてきたことを〉

横浜市緑区荏田町(現・青葉区荏田北)に米軍機が墜落したのは77年9月27日。5棟の家屋が全半焼し、和枝さんと長男裕一郎ちゃん=同(3)=、次男康弘ちゃん=同(1)=が亡くなり、6人が重軽傷を負った。

「全身にやけどを負ったおいっ子2人はその日の未明、痛みで動いてしまうからとベッドにくくり付けられた状態で息を引き取った。和枝も痛みに耐えるつらい闘病生活が4年4カ月も続いた」

隆さんが遠い目で振り返った。

天国でもう一度、子どもたちを抱かせてあげたい-。像の建立は損害賠償交渉の中で勇さんが国に求めたものだった。像を作る会を地域の人たちと立ち上げ、話し合いを続けた。日記に苦悩の跡が残されていた。

〈場所は事故のあった公園が第一候補だったが交渉は難航〉

〈話が決まりそうで決まらない。国の確約がもらえない〉

「書くことで気持ちをコントロールしていたのだろう。そうでもしなければ、現実と向き合うことはできなかった」と隆さん。残された家族は裁判を起こさなかった。「言いたいことは山ほどあったが、裁判を起こして何になるだろうか、と」。日米地位協定は米軍人の公務中の事件や事故では米軍側に優先的に裁判権があると規定する。墜落前にパラシュートで脱出した米兵パイロットは早々に帰国していた。

父亡き後、隆さんのもとにイベントの誘いや講演の依頼が届く。「ありがたいが、遠慮させてもらっている」。安らかに眠らせてあげたいというのが本音だ。

こうも思う。

「当時と何が変わったのだろうか」

見上げる空に米軍機が飛び交う。県基地対策課によると1952年から2014年末までに県内で起きた墜落や落下物などの米軍機事故は225件。死者11人、負傷者28人。日米地位協定の不平等さも残されたままだ。

「私が声を上げていくことも一つの選択かもしれない。でも、行き着くところ、政治的な話になり、そこだけにとどまってしまうことが怖い」

隆さんは静かに言葉を継いだ。

「これからも静かに見守っていく。それがこの家に生まれた者の責任」

【神奈川新聞】


「安らかに眠ってほしいというのが遺族の一番の願い」と話す土志田隆さん =横浜市青葉区
「安らかに眠ってほしいというのが遺族の一番の願い」と話す土志田隆さん =横浜市青葉区

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