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中央大准教授・宮下紘さん
時代の正体〈53〉表現の「不自由」を考える(下)

社会 | 神奈川新聞 | 2015年1月15日(木) 11:15

「ろくでなし子さんの件は海外ではあきれ笑われている。ある米国の学生は『完全男性優位の社会を反映している』とコメントした。男性が女性の性秩序を守りたいのだろうと」と話す宮下紘さん=中央大学
「ろくでなし子さんの件は海外ではあきれ笑われている。ある米国の学生は『完全男性優位の社会を反映している』とコメントした。男性が女性の性秩序を守りたいのだろうと」と話す宮下紘さん=中央大学

「政治的である」といった理由で芸術作品が排除されるケースが相次ぐ。憲法第21条に明記された「表現の自由」は今、どういう状況にあるのか。そもそもどういう権利なのか。旧日本軍「慰安婦」の写真展中止の理由を明らかにしようと写真家、安(アン)世鴻(セホン)さんがニコンを相手に起こした訴訟で、表現の自由についての意見書を寄せた中央大准教授の法学者、宮下紘さんに聞いた。

-美術館、公民館といった公の機関から作品が排除される事件が続いている。どこが問題なのか。

「一番の問題は、表現の受け手のことを全く考えていないことだ。作品がわいせつだとして逮捕、起訴されたろくでなし子さんの事件も安さんの写真展のこともそうだが、作品を飾りたいという人のことばかり考え、見る人のことを全く考えていない。表現の自由は本来、受け手と送り手の両者の情報の交流、伝達のプロセス全体を示す。『(表現を)送れない』というのは表現の自由の侵害の一部ではあるが、あくまでも一部。受ける人が受け取れないということが一番の問題。起きているさまざまな例では、共通して受け手が着目されていないことが課題として浮かび上がる」

-送り手側のことだけを考えるのが日本では一般的だ。

「送り手と受け手の双方の権利であることが表現の自由の根幹であるということは教科書レベルでも書かれている。送るだけのことを保障しているわけではない。伝える人がいるのは受け取る人がいるから。聞く人がいないところでは話さない。だが『この人はわいせつだから駄目』ということばかり言われる。受け手のことを全く考えずに表現の自由論が議論されている点に危機感を抱いている。中止になった写真展の事件のポイントは、写真の内容ではなく、写真を展示したいという人の自由を侵害するということが、見たいという人の自由を侵害しているということだ」

-表現の自由についての諸外国での認識はどうか。

「例えば世界で最も表現の自由を重視しているといわれる米国の憲法の教科書でも、受け手の自由は非常に重要とされている。最高裁判所の裁判官で、ハーバード大で憲法を教えていたエレナ・ケーガンは学者時代に論文で、表現の自由の核心は受け手であり、政府は不正な動機から表現を禁じることはできない、と主張した。受ける側が要らないと判断すれば、送られたものに触れないこともできる。だから、受ける人が判断すればいいのであって、原則として送る側の自由を止める必要はないという考えだ」

-日本での認識が不完全ということか。

「そう思う。特に芸術のような分野は受け手中心になるべきで、見る人の自由を保障することが徹底的に必要だ。見る人がいるから表現するわけだから。ろくでなし子さんの事件についても、見たくない人に見せるのなら別だが、受け手が考えれば良いことだ。価値のない表現だとすれば、その表現は禁止されなくても、いずれ市場で自然と淘汰(とうた)されていく。第三者である公権力がこれは良い、これはわいせつだから許されないと決めるべきではない」

-日本の負の歴史といった政治的な表現に「横やりが入るのではないか」と国民もうすうす感じている状況がある。タブーも増えている気がする。

「以前から表現の自由に制限を設けるということはあった。表現が不自由になっているという雰囲気があるとすれば、ある種の空気のようなものだろうか。日本人は空気を読むことが上手だから人と違うことを言えない、ということはあると思う。だが、表現の自由の核心は空気ではなく、まず伝えなければ意味がない。人間は言葉で理性的にコミュニケーションを取る生き物だが、そういう言葉が現代社会では使われなくなり、空気のようなもので判断する風潮になってきているのかもしれない。そういう背景があって写真展の事件やわいせつの事件が起きたのかなとも思う」

-今の日本で表現の自由は担保されているか。

「不十分だと思っている。米国であれば写真展は間違いなく許されるし、あの性表現も間違いなく起訴される事案ではない。だがどこの国でも表現の不自由さはあり、米国でも1950年代、60年代に共産主義者を弾圧する赤狩りがあった。どの国も表現の自由を侵害するとこれだけ民主主義が傷つく、との反省に立っている。日本でも不自由さを感じる雰囲気があるとすれば、救いといえる。これがなくなれば、おそらく日本は民主主義社会でも何でもなくなると思う」

-なぜ表現の自由が民主主義社会で重要なのか。

「表現の自由がなくなると独裁国家になる。米国の法学者、トマス・エマーソンがかつて表現の自由の四つの価値をこう説明した。一つは自分が自分らしくあるための人格形成。男性は全員丸刈りにしろと命じれば、髪型を通じて自分を表現する機会がなくなる。二つ目は真実の発見。かつて地球が回っていると口にした人は処罰された。表現の自由が押さえられると何が真実か分からなくなる。三つ目は民主主義。自由に表現させて政府への批判的な立場も認めることで初めて政府は良くなる。オール与党の政治は独裁政治であり、野党がいてこそ与党の存在意義がある。四つ目が日本で一番抜け落ちていることだが、社会の安定。検索サイトやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を見てはいけないと押さえつけることで社会を安定させる方法はあるだろう。でもそうすれば不満がたまってやがて内乱が起き、結局は社会の安定は実現できない。ときにデモ行進などである種社会に抵抗する人がいても、そういう人に言いたいことを言わせることで、社会は初めて安定するというのだ」

-今、頻繁に表現の自由の侵害が行われているのはなぜか。

「常に不都合な情報は取り締まりたいというのは人間の本能だ。だがそれをすれば魔女狩りと変わらない。理性的に言葉で対話すればよいのであって、表現には表現で対抗するのが本来あるべき姿だと思う。米国の法律家ルイス・ブランダイスは、政府が非理性的な行動に及べば政府が法の違反者となり、しまいには崩壊してアナーキーにまで至ると指摘した。今の日本はそこまで行くとは誰も思っていない。こういうものを取り締まってもそこまで行かないという安心感、気の緩みがあるのではないかと私は思っている」

-ヘイトスピーチ(差別扇動憎悪表現)を表現の自由と主張する立場もある。どう思うか。

「表現の自由は欧米でアプローチが違う。米国ではこの権利の核心は『自由』。欧州では『尊厳』だ。だから米国ではヘイトスピーチを市場に判断させることが重要として規制せず、欧州では人間の尊厳を損なうとして規制されやすい。日本にはそういう哲学がない。表現の自由の意義、価値を深く追求せず、マッカーサーがつくった憲法の21条を『自由にしてくれてありがとう』と享受してきただけだ。なぜそれが必要かということを考えてこなかったから、表現の自由があらためて危機的になったのではないかとも思っている。日本の中で『なぜ表現は自由でなければならないのか』という哲学を問い直す時期に来ていると思う」

みやした・ひろし 2007年一橋大大学院法学研究科博士後期課程修了。内閣府個人情報保護推進室事務官、ハーバード大ロースクール客員研究員などを経て現職。専門は憲法、情報法。

【神奈川新聞】

 
 

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