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失われる歴史的建造物〈上〉「歴史を生かしたまちづくり」どこへ

社会 | 神奈川新聞 | 2014年11月30日(日) 03:00

近年姿を消した横浜市中区の歴史的建造物(カッコ内は年)。横浜松坂屋(2008解体)
近年姿を消した横浜市中区の歴史的建造物(カッコ内は年)。横浜松坂屋(2008解体)

明治末期の1910年に建てられ、生糸貿易の拠点として横浜発展の礎となった旧三井物産横浜支店倉庫(旧日東倉庫、横浜市中区日本大通)の取り壊しが進んでいる。失われるのは、「歴史的な倉庫」だけではない。横浜市の文化財、都市景観行政の大きな「挫折」として、後世まで語り継がれるかもしれない。

「横浜市は、いつからこんなふうになってしまったのか」。倉庫の保存を訴えてきた専門家団体、横浜歴史資産調査会の米山淳一事務局長は嘆く。「以前は失われた歴史的建造物のことを話すとき『横浜ならば残せただろうに』と言われたが、その横浜でこれほど貴重な建物が危機にひんしているとは…」

●熱意

かつて市側が開発業者と、歴史的建造物を守るため侃々諤々の議論を行ったことがある。2007年、市長の諮問機関である都市美対策審議会での一幕だ。

中区の北仲通北地区の再開発をめぐり、森ビルなど数社からなる再開発協議会が、建物の高さ制限を31メートルから100~200メートルへと緩和するよう市に求めていた。緩和の条件に値する「地域貢献」として市が協議会側に求めたのが、地区内にあった帝蚕倉庫群の何らかの形での保存だった。

帝蚕倉庫といえば、生糸貿易で発展した横浜の象徴の一つといえる。関東大震災後の1926(大正15)年に完成し、横浜に集まる全ての生糸荷物を一括管理した。設計は、くしくも旧物産倉庫と同じく横浜ゆかりの建築家、遠藤於菟(おと)。

審議会では、明確な保存プランを提示しなかった協議会に対し、時に厳しい言葉も飛んだ。「説明責任が果たされていない」「この資料からは貢献の度合いが全く分からない」。そうやって問いながら、緩和に見合う「地域貢献」を明確化させたのが、オブザーバー委員の都市デザイナー、故・北沢猛東大教授だった。

結果、緩和条件として市都市整備局は「公開空地」「文化創造活動拠点」など五つの条件の中に「歴史的建造物等の保存・復元等」を明示。当時現存していた帝蚕倉庫4棟のうち1棟を丸ごと保存、もう1棟も新築したビルの壁面に復元し「倉庫が連なる空間」が残されることになった。

●変質

しかし熟慮の成果はあっさりとほごにされた。08年のリーマン・ショックによる再開発の凍結を経て、事業者側は倉庫全棟の解体を表明。市も、「耐震性に問題がある」などとした事業者側の見解を追認した。07年の審議会の議論を通じ、市都市デザイン室が「保全活用の方向性を協議する」としていた地区内の万国橋ビル(1928年建造)も、2013年にあっけなく壊され跡形もない。

帝蚕倉庫の問題は、旧物産倉庫の解体問題と無関係ではない。そのつながりが、文化庁OBの建築史家、堀勇良・同調査会理事の手元に残された「北沢メモ」からうかがえる。

題は「横浜・三井物産ビルの保存問題について」。作成日は北沢が市都市デザイン室に在籍していた1982年7月12日。当時倉庫を所有していた三井物産の子会社、物産不動産が、既に取り壊しを検討していたことが分かる。その懸念を説明した上で、北沢はビルと倉庫の価値を説く。

「横浜の生糸貿易全盛期を支え、震災・戦災に耐え生き残った三井物産ビルは、その市民的価値はもとより、我国の歴史的遺産として、保存・活用していく必要がある」「倉庫は、レンガ造一部鉄筋コンクリート造であり、(全鉄筋のビルと)隣り合って技術の変化が示されている」

このメモが契機の一つになり、歴史的建造物の保存活用を推進する市の「歴史を生かしたまちづくり」がスタートしたといわれる。今、失われつつあるのは、その原点だ。米山事務局長は強調する。「キタ(北沢)さんたち先達に申し訳ない。まだ諦めない」

【神奈川新聞】


帝蚕倉庫(08解体・4棟のうち3棟)
帝蚕倉庫(08解体・4棟のうち3棟)

本町ビル(12解体)
本町ビル(12解体)

万国橋ビル(13解体)
万国橋ビル(13解体)

解体用のフェンスに囲まれる旧三井物産横浜支店倉庫。現在は全て覆われ建物は見えない=横浜市中区
解体用のフェンスに囲まれる旧三井物産横浜支店倉庫。現在は全て覆われ建物は見えない=横浜市中区

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