「今から10年前の2004年10月23日、新潟県中越地方で大きな大きな地震が起こりました。大きな地震は1回だけではなく、何度も何度も来たので、家や道路はめちゃくちゃに壊れ、山が崩れたり、川の水があふれたりして、68人の人が犠牲になりました」
先月13日、東京臨海広域防災公園(江東区)内の防災体験学習施設「そなエリア東京」。座って耳を傾ける都会の子どもたちに諭すように語り掛けたのは、新潟県小千谷市の高野真弓(47)。体に染み付いたあの日の恐怖を繰り返し表現した。「ガタガタガタ、ドーン。余震は続きます」
披露したのは、同市池ケ原集落の実話を基にした紙芝居。本来の避難所である小学校体育館は古くて危険だからと、400人を超える住民が身を寄せたのは、学校から200メートルほど離れたビニールハウスだった。
震源のある旧川口町(現長岡市)に近い小千谷市。10月23日午後5時56分の本震で震度6強を観測した。さらに3分後と7分後、11分後に5強、15分後に再び6強と本震並みの強い揺れが立て続けに起き、2時間以内に5弱以上の余震が10回もあった。住民たちは口々に言う。「あの日は一晩中揺れていた」
◆役割 いつ倒壊するとも知れないわが家にはいられず、外へ飛び出した。晩秋迫る中越。辺りは既に真っ暗で、寒さをしのげ、家具が倒れてくる心配もないビニールハウスは格好の避難所だった。
紙芝居は続く。
「余震の合間を縫って家に戻れる人は毛布やシートを取りに帰り、食事の材料も持ち寄りました。トイレは近くの小川で。水は井戸を使おう。電気は発電機があるね。次々と話がまとまります」
翌24日には、パトロール係、作業係、ご飯の係と役割を分担する。作業係は重機で畑に穴を掘り、囲いも付けてトイレを確保。7日目には、つぶれた家の廃材を集めてシャワールームも造った。日々の近所付き合いと、それぞれのなりわいをベースとした共助が当たり前のように繰り広げられた。
最初に避難したのは、4棟あるハウスのうち、イチゴの栽培前の1棟のみだった。ほどなくして、残る3棟に育っていたトマトを引き抜いて皆で食べ、避難のスペースを広げる。ライフラインは寸断されていたが、プロパンガスが温かい食事の提供を可能にした。
肩を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごした住民たち。ハウスでの避難生活を終えたのは、地震から2週間後の11月6日だった。
◆反省 高野は紙芝居の中に出てくる1人ではない。語り手を務めるのは、中越地震の経験を踏まえて自助や共助の大切さを伝える「おぢや震災ミュージアム そなえ館」のナビゲーターだからだ。
市内の賃貸住宅で被災した高野は、家族5人で軽自動車に車中泊をした。隣の住民も同じようにしていたが、「地震の前は地域の人とあまりつながっていなかった。それが私の大きな反省」と振り返る。
別の地域に住まいを構えた今はあいさつを欠かさず、地元の行事にも積極的に顔を出す。3人の子どもにはこう諭す。「地域の人に守られているんだよ」。被災後に出会った人たちとの縁が、語り手としての一歩を踏み出すきっかけになった。
「トイレに困り、便秘に11日間悩まされた」「車のガソリンは常に半分以上入れておくようにしていたのに、そのときに限って主人の車はほぼ空だった」「お薬手帳はぜひ身に付けておいて」
努めて身近な話題を語る高野は教訓をかみしめる。「家庭の弱点、職場の弱点、国や自治体の弱点。見て見ぬふりをしていたものがすべて現れてくる。それが災害。そのうち備えればいいと思っている人は、いつまでも備えない」
◆愛着 地域への、さらには寄せられた励ましへの恩返しを伝えることで果たそうとする人は旧山古志村(現長岡市)にもいる。
勤めに出ていた母の安否が分からないまま車の中で不安な一夜を明かした川上沙織(21)は当時、小学6年生。昨年からスタッフとして勤める「やまこし復興交流館 おらたる」には、全村避難のヘリコプターを待つ自分が写り込んだ写真が飾られている。
「風がとても強かった。大変なことになったな、と思った」
夕食前だった激震の瞬間は「揺れが強すぎて動くことができず、ただ居間に座っているだけだった」。それから10年。当時の自分と同じ年ごろの子どもは、あの恐ろしさを知らない。「強い意志を持ってスタッフになったわけではないけれど、伝えていくのは私の役目なのかなと今は思う」
小中学校の同級生18人のうち、山古志に残っているのは4人。過疎高齢化が進むふるさとに川上は思う。「人口は確かに減っているけれど、山古志は変わらず元気。いいところはいっぱいあるし、やっぱり山古志が好き。魅力も伝え、少しでも役に立ちたい」
=敬称略
【神奈川新聞】