なぜ多くの人が津波にさらわれてしまったのか。紙一重で生き延びた人たちは今、何を思うのか。房総の東端に近い千葉県旭市に思いを寄せ続けるのは、同じ首都圏に住む者としてその苦難を知り、わが身に置き換えて考えるためだ。東京都葛飾区の郷土と天文の博物館。展示にとどまらず、ツアーバスを仕立てて被害の海辺へ走らせる。東北の人たちだけでなく、身近な被災地に目を向けずして、東日本大震災から何かを学んだことになるのか。そんなメッセージが伝わる。
5月半ば。降り続く冷たい雨が、くしの歯が欠けたような家並みを一層寂しく感じさせた。40人余りが乗り込んだ「災害教訓バスツアー」。3年余りの時を経た被災地をゆっくり進み、参加者は静かに窓外の景色を見つめた。
「私の自宅は堤防から50メートルほど。2階建てですが、1階はほぼ全滅しました」。案内役を務めた地元のNPO法人「光と風」の高橋進一さん(68)が自らの体験を語る。
両親と近所のお年寄りを福祉センターに避難させ、海岸へ戻った時に大津波に遭い、堤防から一目散に走って逃げ、紙一重で命をつないだあの日-。
2011年3月11日午後5時26分。津波はもう来ないと油断し、羽織る上着や貴重品を取るために自宅へ戻っていた人が次々と津波にのまれた。ある人は家のかもいにつかまり、またある人は松の木によじ登って耐えたが、13人が死亡、2人が行方不明となった。本震から2時間半以上も過ぎた後の第3波が、旭市に押し寄せた最大波だった。
同じ首都圏の悲劇を「自分の目で確かめなければ」と、葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員、橋本直子さん(59)が車を走らせたのは、震災の1カ月後。折しも関東平野で起きた歴史災害の検証展示を準備中に震災があり、「千年に一度の大津波で海岸線がどうなったのか」を記録し続けた。
旭市の教訓も踏まえた12年秋の展示終了後、NPOメンバーの協力を得て現地へのバスツアーを企画。「葛飾はすごく揺れたが、幸いにも大きな被害はなかった。だからといって、『隣人』の経験を人ごとと受け止めてはいけない」。そんな問題意識があった。
2回目となった今年5月のツアーでは、震災を教訓とした対策の現場に足を運び、参加した人たちに感想を書き込んでもらった。
例えば、高さ8メートルの津波避難タワー。
〈いざという時に心強い。避難経路の確認も大事〉〈あまり役立つとは思えない〉
まだ完成をみていない高さ6メートルの防潮堤には、率直な言葉がつづられた。
〈景観を思うと複雑〉〈自然の力に対しては、人間は立ち向かうのではなく逃げることしかできない〉
読み込んだ橋本さんは実感する。「実際に見て、何を感じるかは人によって大きく違う。でも、現場に行かなければ、分からないことは多い。葛飾で同じような災害は起こらないかもしれないけれど、何かの行動につなげ、そして周囲の人に伝えていってほしい」
同博物館が主催する葛飾発のバスツアーは災害教訓以外のテーマもあり、治水や利水などで関わりのある関東の各地に年数回、出向いている。
橋本さんは「旭市のツアーは正直、他のツアーより人気が低い」と明かし、しかし、続ける。「効果はなかなか見えないが、人数が少なくなっても学びに行くという人もいる。新たに保存された仮設住宅もあるし、被災地を忘れないようにするためにも、来年もまた行かなくちゃ」
大規模半壊となった住まいを補修して海辺に住み続けている高橋さんは今も、3年半前の自らの行動を省みる。
避難先からきびすを返したのは、区長(自治会長)や民生委員の立場から「地元の人を放っておけない」と思ったためだったが、「どんな理由があるにせよ、絶対に家に戻ってはいけない」と強く思う。「最初に避難するときに、水の1本も持って出なかったのもまずかった。持ち出し品をきちんと準備しておくことも、忘れちゃいけない」
語り部として活動するうちに前を向けるようになった。訪れた人には、こう訴えている。「命は誰かが守ってくれるものじゃない。自分で守るしかない」
【神奈川新聞】