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極寒、重労働、飢餓…シベリア抑留の傷痕なお 本社OB証言

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月30日(土) 11:09

16歳で陸軍少年飛行兵になった際に撮影した肖像写真
16歳で陸軍少年飛行兵になった際に撮影した肖像写真

満州事変から太平洋戦争へ、およそ15年に及んだ昭和の戦争は1945年8月15日の玉音放送で実質的に終わった。が、終戦によって全ての日本人が平和を手にしたわけではない。異国で新たな“戦争”を強いられた同胞がいた。例えば、ソ連軍によってシベリアなどに抑留された関東軍将兵ら約57万5千人。5万5千人以上の死者を出した地獄から、元神奈川新聞社社員、関谷義一さん(86)=長野県長和町=は生還した。当時、18歳。極寒、重労働、飢餓の日々を、関谷さんは静かに語り始めた。

43年、16歳で陸軍少年飛行兵になった。「アッツ島守備隊の玉砕、山本五十六元帥の戦死…。居ても立ってもいられず、親に内緒で志願しました」

操縦、通信、整備の課程があり、関谷さんは通信兵に。戦局が厳しく、2年で訓練を終えて戦地に送られた。関東軍の隼(はやぶさ)9876部隊に属し、朝鮮半島から旧満州(現中国東北部)を転戦。終戦時は奉天(現瀋陽)に駐屯していた。

ソ連軍による武装解除後、朝鮮半島の新義州に移送。冬になって船に乗せられた。ソ連兵は「トウキョウ・ダモイ(東京への帰還)」と繰り返し言うが、船は北に向かうばかり。次いで凍結した海上を歩かされ、着いたのはハバロフスク地方だった。それまでに多くの死者が出た。

収容所の話に及ぶと、関谷さんの口が重くなる。零下30度、凍傷の恐怖、森林伐採や炭鉱現場の重労働、過酷なノルマ、わずかなパンと薄いスープ、絶え間ない飢え。戦友が次々に倒れる。食べ物をめぐる捕虜同士の争い、密告。ポツリと「餓鬼畜生、でした」。46年の元旦はウラジオストクで迎えた。

収容所を転々とし、スーチャンで、後に「誰よりも君を愛す」「いつでも夢を」などを手掛けた作曲家・吉田正と出会う。吉田は収容所で「異国の丘」などを作った。「みんな一緒に祖国に帰ろう-。吉田さんの歌に励まされました」

虜囚生活3年。48年8月、ソフガバンの収容所からナホトカに移り、復員船で祖国の土を踏む。

大学を出て、53年、神奈川新聞社入社。庶務課長、編集局校閲部員などを務めた。在職中、抑留についてほとんど語らなかったという。「あまりにつらくて。でも、体験者が少なくなり、『歴史を伝えなければ』と思うようになりました。帰国までの長い道のりのように『やっとたどり着いた』心境です」

生還から66年を経た夏。傷痕は、なお生々しい。

◆ シベリア抑留 日本の敗戦後、旧ソ連は旧満州に展開していた関東軍将兵らをシベリアなどの収容所に移送、強制労働に動員した。厚生労働省によると被抑留者は約57万5千人(それ以上とする説もある)。軍属、従軍看護婦も含まれていた。極寒、重労働、飢餓で約5万5千人が死亡。1991年のゴルバチョフ大統領(当時)の来日を機に遺骨収集が始まり、昨年度末までに1万9302柱が収容された。93年に来日したエリツィン大統領(当時)は「謝罪の意」を表明した。

【神奈川新聞】


自筆の掛け軸を前にシベリアの記憶を少しずつ明かした関谷さん。書道の師範でもあり「空道」の雅号を持つ=長野県長和町の自宅
自筆の掛け軸を前にシベリアの記憶を少しずつ明かした関谷さん。書道の師範でもあり「空道」の雅号を持つ=長野県長和町の自宅

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