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漁師たちの戦争 徴用船の悲劇(5)家族のために戦場へ

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月10日(日) 11:00

茨城県沖で監視活動中、米軍の攻撃で沈んだ徴用船の第二相模丸(県水産技術センター提供)
茨城県沖で監視活動中、米軍の攻撃で沈んだ徴用船の第二相模丸(県水産技術センター提供)

戦争が進むにつれて増えていった、軍による漁船や漁師の徴用。拒否する例はあったのだろうか。「漁師には、選択肢がなかった」と話すのは、当時の状況について詳しい三浦市在住のフリーライター、森田喜一さん(79)だ。

戦時中は統制経済で、船の燃料の油や網を作るための糸は手に入らなくなっていた。一方、徴用されれば軍の任務と引き換えに、これらの物資が優先的に支給された。

「家族を支えるためには、そうするしかなかった。徴用船として監視任務などに当たりながら漁に出て魚を捕り、軍に買い取ってもらうしか稼ぐ道はなかったから」(森田さん)

当初は学校や研究所が所有していた調査船、訓練船などの公的な船に、軍は目を向けていなかった。だが、米軍が攻勢に転じた1942(昭和17)年ごろから船が次々に沈められ、新たな船を集め続けなければならない状況に陥った。公的な船も、戦力に加えられるようになっていった。

県水産試験場(現県水産技術センター、三浦市)の漁場調査船「第二相模丸」(135トン)は、42(同17)年に港湾施設を守る警備隊として徴用された。防空監視が主な任務だった。

乗組員は三崎をはじめ宮城県、静岡県から集まった。いずれも民間人で、職業船員や漁師など21人で構成された。監視任務に当たっていた他の船の救助活動など、関東近海で活動していたが、翌43(同18)年6月18日、茨城県沖で米軍の攻撃を受け沈没。乗組員は全滅した。

父親が相模丸で戦死した三崎の男性は戦後、辛酸をなめた。大黒柱を失った一家を支えるため終戦前に県立水産学校(現県立海洋科学高校)を中退し、戦後は漁師になって地元の漁船で働いた。「父親から漁師になるための指導を受けていなかったため、苦労していた。本当は彼の夢は高校を出て船主になることだったが、金銭的な援助もなく船も買えなかった。働きづめで、夢破れた」。親戚の男性はこう同情する。

幼いころに身内が徴用された際のことを覚えているという三崎の郷土史家、石渡喜一郎さん(78)は、こう語る。「秘密作戦なので、身内だけでひっそりと出撃祝いをした。お兄ちゃんたちは『お上の仕事だからしょうがない。どうせ死ぬなら、古兵のしごきがある兵隊より船員のほうがいい』と仕方なく徴用漁船に乗り、戦争に行った」

静岡・焼津の徴用漁船について詳しく調べ、著書にまとめた千葉県に住む元自衛官1佐の軍事史研究家、服部雅徳さん(82)は、国土、国民の防衛という角度から徴用について検証している。「国家間の戦争を防ぐには、なにより外交に力を注ぎ、戦争回避を図ることが一番大切」と力を込める。

当時の戦況に照らせば、平和の海で漁をしていた漁師を戦争の場に駆り出すことは、避けられなかったとみる。だがそれ以前に、そういう状況をつくり出すことを避ける外交努力が、果たして尽くされていただろうか。国際社会に背を向け国内だけで通じる理論を積み重ね、怒涛(どとう)のように戦争に突入していったのではないか。

「外交努力とともに、国は偶発的な衝突など不測の事態を予測して国民、国土を守るための防衛措置を怠らないようにすることが必要だ。民間人である漁師らを再び徴用して、死地に赴かせてはならない。海底深く消えた彼らの死を、決して無駄にしてはならない」と警鐘を鳴らしている。 =おわり

【神奈川新聞】

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