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漁師たちの戦争 徴用船の悲劇(4) 不払いで泣き寝入りも

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月9日(土) 03:00

海員を徴用した命令書、通称「白紙」。徴用の期間などが読み取れる(戦没した船と海員の資料館、大井田孝さん提供)
海員を徴用した命令書、通称「白紙」。徴用の期間などが読み取れる(戦没した船と海員の資料館、大井田孝さん提供)

第2次大戦の戦況が逼迫(ひっぱく)してくると、徴用された漁師たちの多くが命を落とした。その人数は、約3万人にも上るといわれる。戦没漁師への補償は、どうなっていたのか。

「戦死者全員に国の補償があったかどうかは、記録が少ないため不明だ。しかし、遺族からは『いかなる補償もなかった』という声も聞く」。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)の大井田孝さん(72)は、そう語る。

旧陸海軍は契約に基づく徴用の場合、戦死すればいずれも軍属として扱い補償した。問題は、特に戦争末期の混乱期に戦場に駆り出した場合、明確に契約を結ばない例が少なくなかったということだ。

「戦没船を記録する会」事務局長で埼玉県在住の栗原三郎さん(76)は「敗色が濃厚になるにつれ、特に陸軍は港での現場徴用が多くなり、契約の記録もないことが増加した」と話す。こうしたケースでは軍属と認められず、当然、軍からの補償金もない。船主からの弔慰金も、すべてに行き渡ったわけではなかった。

徴用した船舶が沈んだ場合も同様だ。軍が調査し、正当と認められたときに限り補償金が支払われることになっていた。だが契約書がなかったり、生存者や目撃者がおらず沈没の経緯が分からなかったりした場合は、その証明はほぼ不可能だった。

簡単に補償金を受け取れるわけではなかった-、という状況は、漁村内に摩擦を生んだ。県内のある漁港に住む通称「黒潮部隊」(横須賀が本部の監視艇隊・第22戦隊)の遺族は「関係者のことがあるので話せない」と、補償については固く口を閉ざした。

徴用漁船の記録を系統立てて後世に残している静岡県・焼津漁業協同組合の関係者は説明する。「およそ70年前のことではあるが、いまだに補償金をもらった、もらわないで漁師の間に軋轢(あつれき)があるのが実情」

補償金が給付されなければ、遺族年金も同様だった。厚生労働省の担当者は「(徴用漁船の遺族年金は)戦死の確かな証拠がなければ、残念ながら支払いはできない」。泣き寝入りを強いられた漁師や遺族は、人数すら把握されていない。

三崎で戦前から続くマグロ・カツオ船の船主「住吉漁業」。創立者の故四宮(しのみや)正太郎さんは1942(昭和17)年から、海軍によって11隻の漁船を次々と徴用され、物資輸送に当たっていた。終戦までに8隻が東京湾などで米軍の攻撃を受け撃沈。戦死者も出した。

孫で、元三浦市議会議長の洋二さん(72)は、補償について「記録は残っていないが、おそらくなかったと思う」と語る。その根拠を示すエピソードがある。

正太郎さんは戦後、新たに漁船を建造するための融資を銀行に掛け合ったが、色よい返事がなかった。正太郎さんは窓口で思わず「今度、国の徴用があるときは、四宮の船は使わないという証明をくれ」と啖呵(たんか)を切ったという。補償の窓口が銀行だったことを合わせると、補償金がもらえず融資すら断られたことに堪忍袋の緒が切れたのだろう、と洋二さんは推測する。

大井田さんは語る。「徴用船舶に関しては、戦争終了後に政府から船主に補償費を支払うという契約だった。だが、政府には支払う余裕がなく、履行されない例もあった。結局その約束はほごにされ、契約書はただの紙切れになり、宙に浮いている状態だ」

【神奈川新聞】

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