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漁師たちの戦争 徴用船の悲劇(3) 特攻隊並みの厚遇

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月8日(金) 03:00

1965年11月20日、靖国神社で開かれた黒潮部隊(第22戦隊)の慰霊祭で弔辞を読む元軍関係者(写真提供、軍事史研究家・服部雅徳さん)
1965年11月20日、靖国神社で開かれた黒潮部隊(第22戦隊)の慰霊祭で弔辞を読む元軍関係者(写真提供、軍事史研究家・服部雅徳さん)

兵士を募った「赤紙」(召集令状)に対して、漁師は「白紙(しろがみ)」と呼ばれた命令書で戦場へと駆り出された。旧海軍の場合、徴用された漁師や船の多くは「特設監視艇隊」に配属された。

その主な任務は、米軍など敵の機動部隊や戦闘機の監視・哨戒活動。レーダーが未発達だった日本では、「漁師の目」はさながら「人間レーダー」だった。「敵艦を発見して打電すると、敵に傍受されてこちらの居場所が分かり攻撃された。そうすれば撃沈は免れなかった」と宮城県在住の船舶・海事研究家、大内建二さん(75)は説明する。まさに、命と引き換えの現場だった。

こうした特設監視艇隊の主力が、海軍が横須賀に設立した第22戦隊、通称「黒潮部隊」だった。

日本が孤立化を深め、開戦に傾きつつあった1941(昭和16)年8月、米軍が東方洋上から攻撃してくることを想定して黒潮部隊は組織された。関西や九州に配備された徴用漁船の監視艇は数隻にすぎなかったが、国土防衛の最前線である同部隊には、60隻超が配備された。

北海道の釧路から出撃していたが、海軍の機構改革で戦争終盤の44(同19)年8月から、横浜港の旧英国領事館(現・横浜開港資料館)に基地を移設。高島桟橋や大桟橋から出撃した。守備範囲は、千島列島などの北東太平洋から小笠原諸島などの南太平洋までと、広かった。

徴用されたのは長さ30メートル弱、約90トンの遠洋カツオ・マグロ漁船。原始的なディーゼルエンジンである焼き玉エンジンを搭載し、速力は7~8ノットと低速で、戦闘には不向きだった。船体を灰色の軍艦色に塗装し、7・7ミリ機銃2丁を取り付け、小銃2、3丁を積み込んだ。ミッドウェー海戦(42年)での日本軍惨敗以後は米軍の攻撃がひときわ激しくなり、さらに57ミリ砲や潜水艦対策の爆雷を装備した。だが、いずれも貧弱なものだった。

「あくまで監視・哨戒が目的。漁船と思わせるため軽装だった。作戦主体で乗組員の命は軽視していたのでしょう」と、宮城県在住の「戦没船を記録する会」会長、新関昌利さん(79)は語る。

監視艇に軍人だけが乗り込んだのは、開戦当初。戦没が増えるにつれ、漁師が戦力となっていった。中には軍人が艇長の1人だけ、という例もあった。45年の終戦までに、全国で監視艇として徴用されたのは407隻。うち7割強の約300隻が帰還できなかった。

作戦の様子を、当時三崎の漁労長だった高木義二さんが回想録にまとめている。高木さんは29(昭和4)年、14歳で三崎の漁師になった。戦争が激しくなるにつれ三崎からのマグロ船の徴用は頻繁になり42年に11隻、43年に9隻、44年には8隻に上った。漁業は壊滅状態だったという。

高木さんは44年、黒潮部隊の監視艇「紀宝丸」(木造、約80トン)に船長として乗船した。「監視中に魚を捕って稼ごう。軍に召集されないために乗ろう」というのが動機だった。もう一人の漁師が機関長となり、軍人ら16人で出撃した。

横浜港から南に約600キロメートル離れた太平洋の鳥島付近で監視活動中、敵の哨戒部隊と遭遇した。爆撃機から機銃掃射と爆撃を受けたが、沈没は免れた。しかし、機銃手の水兵2人が被弾。出血多量で横浜へ帰港する前に命を落とした。

高木さんは「監視艇は一度出撃すれば、生還は難しい状況だったので特攻隊並みに食糧に銀しゃりが支給されるなど厚遇されていた。特攻船と祭り上げられても、しょせん消耗品だ」と書き残している。

【神奈川新聞】

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