足元から大量の泥水が噴き上げ、見上げれば黒煙が青空を覆っていた。きょう16日で50年の節目を迎える新潟地震。発生直後に愛用のハーフサイズカメラを手に、目の前に迫る被害の現場や戸惑う人々にレンズを向け続けた高校生がいた。新潟明訓高3年だった竹内寛さん(67)=相模原市南区。当時は詳しく知られていなかった液状化現象や地盤災害、製油所火災の猛威を中心に捉えた数多くのモノクロ写真に今、光が当てられている。
記録することへの使命感があったわけでも、地震への関心が高かったわけでもない。むしろ何が起きたのか、すぐには飲み込めなかった。「それまで新潟では地震がなかった」ためだ。
東京オリンピックを4カ月後に控え、新潟国体が終わって間もない1964年6月16日。昼休みが終わる直前の午後1時すぎ、校舎4階の外廊下にいた竹内さんを経験したことのない揺れが襲った。マグニチュード(M)7・5、新潟市内を中心に26人が死亡、8500棟以上の住宅が全半壊した新潟地震だった。
騒然とする教室から階段で避難する同級生たち。竹内さんも続いたが、「宝物」が棚にあるのを思い出し、きびすを返す。10日ほど前に買ったばかりの「オリンパス・ペン」。偶然にもその日、持参して登校していた。
教室で1人、カメラを手に窓外を見ると、「沸騰する湯のように地面からボコボコと噴き上がる泥水」が目に入った。液状化が起きた瞬間だった。
地割れが幾筋も走り、地下水で水浸しの校庭にひしめく生徒たちを狙ってシャッターを切る。向きを変えて1枚。特定の人物を追ってもう1枚。「空はものすごく青かった。でも、余震があったかどうかは覚えていない」。とにかく夢中で撮り続けた。
1階に下りた竹内さんが目撃したのは、液状化の激しさだった。校内に止まっていたパン屋の車はタイヤの上まで水没。校舎と建築中の別棟とを結ぶ渡り廊下は引きちぎられるように分断されていた。校外へ逃れようとした生徒は冠水した道路に行く手を阻まれ、身動きがとれない。立ち上る製油所火災の黒煙も収まる気配はなかった。
しばらくして生徒たちは安全な場所を見つけ、集合した。教員の指示を聞いていたとき、誰かが叫んだ。
「津波が来るぞーっ」。当時の新潟明訓高は信濃川沿いに立地。川から離れる方向へと皆が避難を始める中、竹内さんは仲間と川へ向かう。
河岸から眺めると、高さ1メートルほどの白波が渦を巻くように遡上(そじょう)していった。生まれて初めて目にする津波。足元にまでは及ばなかったものの、あまりの衝撃にシャッターは押せなかった。
その後もフィルムを買い足しながら学校の周辺や商店街で撮影を続けた。1階が家業のスーパーだった自宅も液状化で傾いたが、周囲に広がる複合災害の過酷な現場を次々と切り取った。
今、手元にはフィルム4本分のネガが残る。見つめながら、当時の行動をやや向こう見ずだったとも振り返る。
「津波を見に行ったのは間違いだった。もし、東日本大震災のような大津波が押し寄せていたら、命はなかったろう」
そうかみしめる竹内さんは、だから思う。「怖さを知らないというのは、とても恐ろしいこと。地震でどんなことが起きるのか、きちんと知識を得ておかないと、間違った行動をとりかねない。その意味で私の写真が役に立つのならうれしい」
◆「教訓語り継ぐ資料」 関東学院大・若松教授
竹内寛さんが新潟地震直後に撮った150枚余りの写真は今月から、日本地震工学会のウェブサイトで公開されている。全国の液状化の実態を調べている関東学院大の若松加寿江教授が「科学的な視点で撮影され、教訓を語り継ぐ貴重な資料」と着目。撮影地点を図示するとともに、一枚一枚から読み込んだ被害の特徴について解説を加えている。
大学進学で神奈川に移り住んだ竹内さんは地震翌年の1965年、母校の新潟明訓高校に写真を提供。それが被災地調査に訪れた研究者の目に留まり、論文に引用された。さらに地震から40年後の2004年の学会で自ら撮影時の状況を報告した。若松教授はこのときに協力した縁で写真の公開に向けて準備を進め、詳細な分析もしていた。
例えば、タイヤが水没した車の写真から、冠水の深さは約60センチにも達したと推定。「信濃川を供給源とする大量の地下水が存在していたため、これほど激しい液状化が起きた。東日本大震災でも利根川沿いで局所的に同様の状況があった」と指摘する。
液状化で護岸が崩れた後に津波が押し寄せ、浸水した場所もある。「液状化で人は死なないと言われるが、大量の泥水は避難や救助の妨げになる。津波などの影響が重なることで被害が広がることも認識すべきだ」と警鐘を鳴らす。
【神奈川新聞】