
その品々を手に取った時、湧き上がったのは「恐怖」だったという。横浜市西区の会社経営山本博士さん(44)が横浜大空襲に加わったB29爆撃機の搭乗員の装備品を手に入れたのは、昨夏のことだった。出撃計画を記したメモに私物を入れていたバッグ、爆撃地点への航路の計測に用いたと思われる計算定規-。爆弾を落とす側と落とされる側が表裏をなす戦争の実相が、目の前に立ちのぼってきた。
米国から空輸されてきた段ボール箱を開け、最初に目に入ったのは大ぶりのバッグだった。
カーキ色のキャンバス地に識別番号が印字されていた。使い古されていたが、においはしなかった。
「その瞬間に感じたのは恐怖。これを持ってB29に乗り込み、爆弾を落としていったのか、と」
山本さんはそう振り返る。
その品々は手元に届かないかもしれないとも思っていた。洋菓子メーカー三陽物産を営む山本さんは市内に窯があった「眞葛(まくず)焼」の収集家でもあった。米国のオークションサイトに目を通しているうち、「B29」の文字が目に留まった。元搭乗員の遺品らしかった。16点をまとめて十数万円の即決価格で落札した。
「搭乗員の親族や友人、あるいは戦友会のようなところで利用してほしいと出品したのだろう。こちらは爆撃で被害を受けた日本人。遺族かもしれない出品者がけげんに思い、送ってこないのではないかとも考えた」
■若者たち
パソコンで応札のクリックをした時、「大した感慨もなかった」。ほどなく届いた段ボール箱。
「例えば、これがピストルですよと示されるのと、これがきのう何人も人を撃ち殺したピストルだ、と見せられるのとでは、感じ方がまったく違う」
横浜に生まれ育ち、大空襲のことは学校でも習ったし、体験談を見聞きしたこともあった。創業51年の3代目として「ミナトヨコハマ」への思い入れは強い。
胸に呼び起こされたのはしかし、町を焼き尽くし、8千人ともされる人々の命を奪った被害への感情だけではなかった。
装備品には一片の紙もあった。
〈私を看護し、私に食物を下さい〉
墜落、不時着したケースを想定してのものだろうか、救援を求める文言を7カ国語で記してあった。防水加工が施され、米兵はこれを肌身離さず持っていたのだろうか-。
爆撃を命じられ、爆撃機に乗り込む米兵。そのこわばった顔々を思い浮かべてみる。
「実際に使われていた装備品は、いやが応でも現実味を帯びて戦争というものを想起させる。それまで感じたことのない直感こそ、戦争の恐ろしさなのだと思う」
■むなしさ
「幻のやきもの」と称される眞葛焼の収集を始めて10年余り、横浜大空襲は避けて通れないテーマでもあった。
初代・宮川香山が1871年に横浜市太田村(現在の南区庚台)に窯を設けて、その作品は各国の万博で高く評価され受賞を重ねたという。横浜港から輸出されていった日本の逸品は散逸し、作品数が乏しいことも「幻」とされるゆえんだ。
窯は横浜大空襲で焼失し、当時3代目だった宮川香山や家族、従業員も犠牲となった。4代目が再興を目指したが、かなわず、その歴史は途絶えた。
でも、と山本さんは言う。
「確かに空襲は類い希(まれ)な名品の歴史を文化もろとも一瞬にして消滅させた。怒りや憤りを感じる人もいるかもしれない。でも、私がいま感じるのはまさに戦争のむなしさだ」
図らずも触れた、人を殺し、殺させもする戦争の本質。折しも、安倍晋三首相は憲法の解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしている。山本さんの目には、再び戦争ができる国へと歩を進めているようにも映る。
「まず戦争を知り、想像力をもって、戦争の意味をあらためて考えてもらいたい」
より多くの人に見てもらいたいとの願いを込め、入手した16点の資料は全て横浜市史資料室(同市西区)に寄贈した。
◇加害者側から戦争を知る
山本さんが入手した軍用装備品は横浜大空襲に出撃したB29の航空機関士、キング・マーティン中尉が所有していたものだった。
横浜市史資料室主任調査研究員の羽田博昭さん(56)によると、テニアン島北飛行場の第313爆撃団第504爆撃群第421爆撃隊に配属されていた。「Miss SUSU(ミス・スス)」のニックネームが付けられた機体に乗り込み、硫黄島やトラック島への爆撃作戦のほか3月4日の東京への空襲など出撃は35回を数えた。第313爆撃団は横浜大空襲で東神奈川駅を攻撃目標としていたという。
「空襲被害の実体は証言や記録、資料などで公開されてきたが、攻撃した側の資料はそう多くはない」と資料価値を語る羽田さんだが、それ以上に感じることがある。「戦争は一瞬にして人を加害者にも被害者にもするということです」
日本への空襲では300機以上のB29が撃墜・墜落し、約300人の搭乗員が死亡・行方不明になっている。不時着した生存兵が拘束され、処刑された記録もある。横浜大空襲では出撃した517機のうち7機が未帰還。帰投したミス・ススの機体にも100カ所以上の弾痕があったという。
一般市民の頭上に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせた非人道と一方で紙一重だった米兵の生と死。羽田さんは言う。「被害を知り、攻撃した側を知ることで本当の戦争の悲惨さが分かる。当時の米兵もまた、素朴な若者にすぎなかったはず。そこに戦争の残酷さがある」
山本さんから寄贈された資料には、休暇でキジ狩りを楽しみ、仲間の兵士たちと笑顔を見せるマーティン中尉のスナップ写真もある。
【神奈川新聞】
