
#あちこちのすずさん神奈川新聞と戦争(上)足柄平野を耕した「増産乙女」
2020年08月06日 15:00

#あちこちのすずさん神奈川新聞と戦争(中)出征した自慢の農耕馬
2020年08月14日 14:55
神奈川県の「報国農場」
トウモロコシを今も「ポーミー」(包米)と呼ぶ。小田原市で農業を営む市川タミ子さん(99)が戦時中、日本のかいらい国家「満州国」で覚えた中国語の方言だ。1944年の農耕期、タミ子さんは県から派遣され、大陸を耕した。滞在中、郷里に宛てた手紙が同年5月11日付の神奈川新聞に紹介されている。

〈全員一団となりこの種子播(ま)きが始まりました、食料事情は内地よりよく、広い曠野(こうや)にあつて愉快に農耕に励んでゐます、こんなに張合(はりあ)ひがある農耕に従事したことはかつてありませんでした、十月には収穫物を大豆百トンに替へ帰県の予定となつてゐます〉
派遣の目的は食料の増産にあった。この年、県は満州の吉林省に300ヘクタールの「在満神奈川県報国農場」を開設。県内各地の農村から選ばれた10~40代の男女150人の「満州建設勤労奉仕隊」が合宿生活を送りながら、穀物や野菜を生産した。手紙にある通り、それらは100トンの大豆に換算され、県に送られたという。
「馬鈴薯(ばれいしょ)=二町五反、南瓜(かぼちゃ)=二町二反、高粱(コーリャン)=七反、包米(ポーミー)=一町、粟(あわ)=五反、大豆=五反、マクワ瓜(うり)=五反、小豆=五反」とタミ子さんのメモにある。11人が一組となり朝6時半から日が暮れるまで、人と馬の力だけで8ヘクタールを耕作した。
雨が少なく空気は乾燥して爽やかで、土は「石よりも硬かった」。小豆を脱穀する時は、じかに土の上に広げ、馬にローラーを引かせれば済んだ。「むしろを敷かなくても、きれいな小豆が精製できるの」
ただ、食料事情は手紙に書いたほどには潤沢でなかった。「一膳飯とは情けなや」という、当時流行した「軍隊小唄」の一節を引き合いに、タミ子さんは振り返る。「本当におかず一つ、ご飯一つ」
「家」の重圧から離れるため
「楽しかりし頃」。満州の写真を収めたアルバムにはそんな言葉も添えられているが、半年余りの滞在中にタミ子さんが考えていたのは「早く帰りたい」の一念だった。半面、タミ子さんが奉仕隊に志願したのは、その実家を離れるためでもあった。
「弟は出来が良くてね。いい学校に行こうとしていたから」。自分が家を空ければ進学を諦め、農業を継いでくれると考えたのだ。父は喜んだが、弟に対しては「悪いことをした」との思いを抱き続けた。だから戦後になって嫁いでも、タミ子さんは実家の田畑の手伝いを欠かさなかった。

そういう「家」の重圧と国策が、農業には絡み合っていた。そして、日本の国策である報国農場には、「満州国」が掲げた「五族協和」の現実が露呈していた。
「あれだけの広さの畑を取っちゃったんでしょう、満州を建設するために」。農場は現地の住民から、宿舎は軍閥の張学良の愛人から接収したといわれる。
タミ子さんは44年10月下旬に帰郷したが、現地に残る越冬隊も十数人いた。実は、タミ子さんも残留を勧められたという。もし残っていたら─。越冬隊や翌45年に派遣された隊員はソ連参戦、敗戦、引き揚げの苦難を味わった。栄養不足や病気で命を落とした人もいる。その中にタミ子さんの同郷の友人もいた。「翌年はかわいそうだった…」
現地の住民の土地を奪い、送り込んだ国民をその土地に置き去りにする。それが、土と結び付いた「国策」の真相だった。
農業は「国のため」…思想は戦後も連続した
1943年9月24日付の本紙は「大陸の沃土(よくど)は招く」「満州神奈川県」と題して、県報国農場の建設を伝えた。「決戦下日満両国間の緊密化を図ると共に食糧増産国策に即応、県内食糧需給体制を確立せんとする」と、記事にはその目的が明確に示されている。
所在地は吉林省懐徳県大楡樹村大泉眼屯。国策を担わされた隊員たちの出発は、県を挙げての「出陣」だった。市川タミ子さんのメモには▽44年3月21日に結成会▽30日に市内三島神社で「盛大に壮行会」▽同日、県庁で結成式─とある。大陸への旅は厳しく、超満員の列車で山口・下関まで行き連絡船に乗り換え、釜山から列車で朝鮮半島を縦断した。4日を費やした。

足達太郎ほか著「農学と戦争」は、いまだ広く知られていない報国農場の歴史に迫った研究書である。発案者は「各府県に一農場ずつ将来の入植拠点として所管させるほかに、各種団体にも分担してもらう」と構想。農林省の外郭団体「農業報国会」が統括した。タミ子さんと同じ44年には50農場に6146人が派遣されたという。
満州を巡っては14年間に約27万人が入植した満蒙開拓団や、農耕と国境警備を担わせた満蒙開拓青少年義勇軍が知られる。
彼らはソ連参戦後、ソ連軍や地元民らに殺害されたり、集団自殺に追い込まれたりした。引き揚げの困難な子どもは現地に残され、後に中国残留孤児として表面化した。報国農場の人たちも同様だが、現地の死没者などの全容は分かっていない。彼らを守るべき関東軍はソ連参戦前に撤退していた。国による「棄民」である。
同書は、日本人の民族的な優位が農業に表れているとする思想や、農業を「国のため」とする論理が、戦後も生き残ったと注意を促す。報国農場を発案、実行し、多くの人を死に追い込んだ農学者たちがその反省もなく、戦後農政に関わった連続性も指摘している。