1. ホーム
  2. ニュース
  3. 社会
  4. 未曽有に学ぶ〈27〉相模湾(上)◆直後に東西へ高い波

~関東大震災90年~ 津波が襲う(3)
未曽有に学ぶ〈27〉相模湾(上)◆直後に東西へ高い波

社会 | 神奈川新聞 | 2014年2月18日(火) 12:39

絵図を基に、津波の到達した地点を探る三浦半島活断層調査会のメンバーら=昨年8月23日
絵図を基に、津波の到達した地点を探る三浦半島活断層調査会のメンバーら=昨年8月23日

〈津波が二つに割れちゃったですって、大磯海岸のとこで。(中略)平塚の方と二宮の方とね、両方へと割れたために大磯は助かったですって〉

大磯町消防本部が30年以上前に行った聞き取り調査を基に1993年に発刊された「むかしがたり -古老が語る大磯の災害-」。関東大震災当時、17歳だった男性は津波が東西へと向かったため、自分の足元に及んでこなかったと証言している。

別の男性も、似たような状況を目の当たりにしていた。

〈波の大きいのがね、こっちへと来ねえで、こんだ横にはらってっただ。だから、鎌倉ひどかった〉

断層は小田原付近の震源から南東方向へ破壊されていき、相模湾の海底で東側が隆起、西側が沈降し津波を発生させた。陸に向かった津波は跳ね返ったり重なったりするため一概に言えないが、湾の東西で高くなった可能性はある。

大磯の場合は、地震に伴って海岸が2メートルほど隆起。内陸まで浸水しなかったとみられ、町の震災資料や「神奈川県震災誌」にも、「流失」に数えられた被害家屋はない。

町郷土資料館学芸員の大石三紗子(29)は指摘する。「確かに津波はあまり高くなかったようだ。大磯では火災も起きておらず、亡くなった三十数人は家屋の倒壊が原因だった」

一方、真鶴に残る証言は、大磯とは異なる様相を浮かび上がらせる。

〈津浪は真東の方向から入江に向って押し寄せ、そのエネルギーは大浦の浜に集中した〉

「真鶴町郷土を知る会」が震災についてまとめた冊子では、被災者の一人が大津波が襲来した時の状況を回想している。

〈沖の水平線が雲の湧き上がるように、次第にふくれてきてどんどん大波となって、港に向って押し寄せて来ました。(中略)私の家はたちまち津浪にのまれ、戸や障子がぱたんぱたんと音を立てて解体して流れて行きました。すると港内では津浪に流され救助を求める人々の悲痛の叫びがはっきりと聞えて、子供ながら胸がつまりました〉

そして、多数の人命が失われた。

〈浜辺で遊んでいた学童、流出家屋と運命をともにした親子や兄弟、津浪と知らずに浜に避難していた避暑客や旅行者など、その数は相当数にのぼった〉

浜辺には遺体が横たわり、湯河原沖にも引き波で流された屋根やタンスが浮かんだ。港に停泊していた数十隻の船も押し流されて大破、座礁し、あるいは沈没したと伝えられている。

相模湾の東側はどうだったのか。最悪の被害が出たとされる鎌倉は数々の写真や手記から浸水状況が解き明かされつつあるが、逗子では一枚の絵図が解明の鍵を握る。

うねりながら陸へ襲いかかってくる白波。波間で転覆しそうな小船に必死にしがみつき、あるいはおぼれかかった男たち。そして、傾いた家々と崩れ落ちた石垣のそばを人々が逃げていく。揺れに耐え、実在する寺や蔵も描かれており、崩落した崖の向こうには江の島も見える。

タイトルは「震後津浪襲来 逗子小坪所見」。震災翌年の24年の刊行とされる「大正震災画集」に収められた、画家近藤紫雲による作品だ。

「関東大震災のときに小坪にいたのか、それとも後で聞き取った状況を基に描いたのか」。逗子市史に掲載されていた絵図に着目した市民グループ「三浦半島活断層調査会」の蟹江康光(72)は、創作のいきさつも含めて当時の状況に思いをはせる。「逗子には、鎌倉のような津波被害の写真は残っていない。だから、この絵図から当時の状況をきちんと明らかにし、語り継いでいかなければ」

思いを実現する一つの場面が昨年8月にあった。絵図を手に調査会のメンバーが小坪に集い、地元住民らを案内した。

「被害のない奥の寺は海前寺。手前は小坪寺ではないか」「江の島は実際より東側に描かれている」

絵図に目を凝らしつつ、描かれた場所を順番に訪ね歩く。そして海から200メートルほどに位置する土蔵の前で蟹江は言った。

「海岸線の位置は当時と違うが、津波は海抜6~7メートルのこの場所まで押し寄せてきたと推測される」。そして注意を促した。「関東大震災級の津波が押し寄せてきたら、すぐに10メートル以上の高台を目指して」

津波の解明に向けた調査の一環で今年1月には、かつて小坪の海沿いで商いをしていた80代の女性の元へ足を運び、震災以降の状況を書き留めた「日記簿」を見せられた。

苦難の始まった9月1日の状況を〈強震ト同時ニつなみ〉と表現。本宅や倉庫などが流失したとの記述があり、蟹江たちが懸念するように短時間で高い津波が来襲したことをうかがわせた。

県震災誌によると、当時の逗子町では90戸が流失。85年の報告書で小坪の津波痕跡高は7・7メートルと分析され、真鶴(9・2メートル)や鎌倉・由比ケ浜(9メートル)に次いで高かった。 =敬称略

【神奈川新聞】


小坪に襲来した津波を描いた絵図。逗子市の津波ハザードマップの表紙に採用された
小坪に襲来した津波を描いた絵図。逗子市の津波ハザードマップの表紙に採用された

火事に関するその他のニュース

社会に関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

アクセスランキング