晴れ着で見送る
「吾(わ)が愛馬田澤号も征(ゆ)く/小田原駅にて最后(さいご)の別れ/心中いかばかりや/いずこの地に果てなるや」
愛惜の念に満ちた言葉を添え、市川タミ子さん(99)=小田原市=は、戦時中に撮った一枚の写真を大切にアルバムに収めている。

男手に乏しく、1.6ヘクタールもの田畑を姉妹3人だけで耕した当時、共に汗した農耕馬が「田澤号」だった。写真はその愛馬が軍用に供出させられる時のものだ。
出征兵士が万歳の声で送られたのと同様、馬の供出は名誉だった。けれども、晴れ着姿で小田原駅まで手綱を引いてきたタミ子さんの表情は寂しげに見える。
「馬が汽車に乗るのを嫌がって…乗せるのが何といっても大変だった。あんなに小さな馬も(軍に)納めなければいけなかったのかな」
親を手伝い、15歳のころから馬を操った。「かわいかったよ、元気よくてね」と懐かしむが、小柄な馬とはいえ、手なずけるのは少女にとって容易でなかった。
馬の鼻先に竹の棒を結び付け、足元の不安定な土の上を引き回して田畑をすく。鼻取りという、力の要る作業だった。田んぼの端まで行って折り返す時などは、文字通り馬が合わなければ、真っすぐに動いてくれなかった。馬も人を見たのだ。
「手綱の引きようでね、思った通りに歩いてくれたの。その時のうれしさといったらなかったね」
国策を担う競技
割当量を超える米を供出したタミ子さんを「美談」として取り上げた1943年3月18日付の神奈川新聞には、こんな一節もある。「(足柄)下郡豊川村桑原奥津たみさんは、同地方馬耕の婦人選手として昨年県下馬耕競技大会の際、入賞の栄冠をかち得た」(豊川村は現在の小田原市、奥津はタミ子さんの旧姓)

馬耕競技とは馬を使う農作業を競技にしたもので、耕す速さや深さ、畝の形、すいた後の平滑さなどが審査された。戦時中も各地で行われ、例えば中郡旭村(現在の平塚市の一部)で開かれた競技会の模様を、同年3月31日付本紙は「鮮やかな手綱を操つり銃後風景を展開した」と伝えた。「銃後」の語に、食糧増産の国策を担わされた農家の位置付けが読み取れる。
タミ子さんにとって、競技会で入賞した愛馬は自慢だった。「自分が田をすいた馬、それで賞をもらった馬。賞をもらって、長じゅばんを作って嫁に来た」
だが、愛馬は「出征」したきり帰ってこなかった。
代わりに用いた牛は馬ほど俊敏に動かず、供出した馬の補償として戦後もらい受けた軍馬は、痩せこけていて気性が荒かった。戦争ですさんだのは人間だけではなかったのだ。タミ子さんはその馬に腕をかまれた。
「それで怖くなって、馬が嫌いになっちゃった」。傷痕は今も残っている。
命の「道具化」の果てに
「廿(にじゅう)一、二の両日、小田原在豊川村成田耕地に開催された紀元二千六百年奉祝記念全国馬耕競技大会も、恵まれた天候に二万の人出を見、盛況裡(り)に…」
1940年11月23日付の横浜貿易新報(本紙の前身)の記事である。皇紀2600年とあって「畏(おそ)れ多くも李鍵公殿下」が「御台臨遊ばされ土の選手の活動振(ぶ)りを御台覧」(同21日付同紙)したという。李鍵は大韓帝国初代皇帝高宗の孫で、韓国併合後に日本皇族に準ずる公族となった。台臨、台覧は皇族などが臨席する、見ることを意味する。
既に日中戦争下にあり、食糧供給の使命を帯びた農村では、馬耕の技術に長じた人たちの存在は、増産に寄与するとして称揚された。
23日の紙面には「軍用保護馬の鍛錬競技会」が横浜市の戸塚競馬場で開かれる、という記事も掲載された。軍用保護馬とは、軍馬の素質があると国から認められた民間保有馬を指す。これらの馬には軍事鍛錬が義務付けられていた。
近代以降、農耕馬も競走馬も一貫して戦争に結び付けられていた。森田敏彦著「戦争に征った馬たち」によると、軍馬の使用が本格化したのは日清戦争からで、日露戦争では22万3千頭が動員された。さらに日中戦争から敗戦までの8年間には、推計60~70万頭が戦地に送られたという。
主な用途は兵器や物資の輸送だったが、無理な使役による疲労や被弾で多くの馬が死んだ。その数は20万ともいわれる。一方、農耕の担い手を失った農村も大きな影響を受けた。いずれも日本の機械力の貧弱さを示してもいる。
同書は戦時中の軍馬を「動物兵士」と捉えた。人間の生命までも兵器にした特攻隊に重ね、人間も軍馬も極限まで「道具化」したことが、日本の総力戦の実相だったと指摘した。