
(女性、83歳)
終戦の4カ月前、父に召集令状が届いた。
私、10カ月の妹、父母の4人は、当時移り住んで間もない群馬から、夜行列車で父の生家のある本籍地・近江八幡に向かった。翌朝、村の神社で村の人たちが父を歓呼の声で送り出してくれた。
「長女と次女をしっかり見て妻と最後の別れをした。二人とも不思議と涙は出なかった。(略)これが今生の別れになるのだろうか―」。これは後に帰還した父が記した手記の一節だ。
群馬に戻ると父からの軍用はがきが届いていた。「今平壌に着いた。元気にしている」。これを読み、母が号泣した姿は忘れない。それから2年間、父の行方は分からず、何の情報もなかった。母の思いはいかばかりであったか。
幼い子ども2人を抱えての暮らしが始まった。母は近所の人に防空壕を掘ってもらった。やがて8月になり、人について山の方向に逃げることになった。私はリュックを背負い、母は妹をおんぶして、夜の道を歩き続けた。
そうして腰を下ろして一休みしたとき、その一瞬の間にリュックがなくなっていた。
大切なお米が入っていたリュック。人が盗むなど思っていなかった、幼い私。だが、人のことなど考えないあの殺伐とした大人たちも、責められないのかもしれないと思う。
父についてはその後、シベリアに連れていかれたようだとの噂があり、私と母は絶望の思いだった。マイナス30度の極寒の中の強制労働。栄養失調…。シベリアにいるのなら生きて帰れるとは思えなかった。
だが父は生き延びた。九死に一生を得て昭和22年にシベリアから帰還して父の姿を目にしたときの喜びは決して忘れない。