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平和つなぐ 戦後75年
埋もれた歴史に光 平塚空襲、死者数増 10年ぶりに修正

社会 | 神奈川新聞 | 2020年8月4日(火) 11:40

平塚空襲展で展示されている「平塚の空襲と戦災を記録する会」の最新の調査結果を説明する江藤巖会長=平塚市博物館
平塚空襲展で展示されている「平塚の空襲と戦災を記録する会」の最新の調査結果を説明する江藤巖会長=平塚市博物館

 終戦直前の1945年7月、平塚市中心街を米軍機が襲った平塚空襲。市博物館はこれまで「328人以上」としていた空襲死者数を「363人以上」に10年ぶりに修正した。空襲体験者や歴史愛好家らでつくる「平塚の空襲と戦災を記録する会」が同館と連携し、体験者の証言から“足”で裏取りをし、公式記録から取りこぼされた死者の存在を掘り起こした。記憶の風化も進む戦後75年の夏─。埋もれた戦禍の記憶に光を当てようとしている。

氏名は分からず

 空襲の夜。平塚・旧新宿地区(現・明石町)で次々と上がる火の手から逃げた当時12歳の少女が、焼夷(しょうい)弾の直撃を受け死にかけた女性を目撃した。「盛んに女の子の名前を呼んでいた」。いつも通学路途中の家で機織りをしている女性だと後から知った。

 二宮町では不発弾が爆発し、「『兵隊さん』が亡くなった」と当時の医師の日記に残されていた。亡くなった場所から、いずれもこれまで同会などが確認した名簿にはない死者と判明。死者数に新たに数えたが、氏名は最後まで分からなかった。

 「1人分の調査に半年ほど。でも氏名までたどり着けることはほとんどない。何とか突き止めて慰霊塔に名前を入れてあげたいが…」。同会会長の江藤巖(いわお)さん(87)はため息をつく。

 多くが避難時に見掛けた名も知らぬ死者たち。証言を基に現地を歩いて聞き取りをするが、時代の変化や記憶の風化に阻まれる。新たに判明した死者のうち、氏名までたどり着いたのはわずかに5人だけだった。

生き残った意味

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