俳優・竹中直人さんの父竹中博美さん(92)=横浜市金沢区=は1945年5月29日の横浜大空襲で九死に一生を得た。学徒勤労動員先の軍需工場にいて被災をかろうじて逃れ、生と死のはざまを生き抜いてきた。今月2日には同区内で講演し、「戦争は人間らしく生きることも死ぬことも許されない」と語り、不戦を誓った。愚かな戦争のない未来のために─。
【#あちこちのすずさん】戦争は終わった、強く生きよう 光子ちゃんとの約束
「5月の晴れた日。横浜は空一面真っ黒になった。あれは怖い。たった1時間で焼け野原になってしまった」
横浜大空襲では慣れ親しんだ横浜の景色が一変した。米軍のB29爆撃機による焼夷(しょうい)弾攻撃を市街地に受け、約8千人とも、それ以上ともいわれる市民らが命を落とした。
竹中さんは戦争末期、旧制中学の同級生と勤労動員に駆り出されていた。同市鶴見区の東寺尾に自宅があったが、工場を点々と移りながら兵器の部品を作る過酷な労働が続いていた。
竹中さんは今月2日、同市金沢区の金沢地区センターで開かれた「戦争体験を語り継ぐつどい」で約40人の聴衆を前に戦争の凄惨(せいさん)さを語った。力を込めたのは「飢え」だった。南方や中国など前線の兵士が飢餓に苦しみ、数多くの餓死者を出した現実に触れた。
フィリピンに出征した30代のおじ2人は戦死した、という。「どういう死に方をしたかは分からないが餓死だろう。ひどい話だ」。竹中さんは穏やかな表情を保ったまま、怒りを込めた口調で訴えた。
竹中さんは戦後、市職員として区役所に勤めながら直人さんを育て上げた。戦争経験者が高齢となる中、竹中さんは次世代に向けて「兵士だけでなく多くの住民の命が奪われた。このような戦争は二度と繰り返してはならない。私たちは憲法を守らないといけない」と強調した。
つどいでは、旧満州(中国東北部)で旧ソ連軍の侵攻を受けて逃げ惑った高橋素子さん(85)=小田原市=も体験談を披露した。