
(女性、90歳)
14歳の少女が、今日も高射砲の弾を入れる弾倉磨きをします。0.1ミリの狂いがあっても弾は飛んでいかないので、検査が厳しいです。
お昼には大豆が3個入ったさらさらのおかゆが出ます。今日もくたくた。でもこれも日本が戦争に勝つためと思って働きました。
15歳の春には電車の操車場に行き、車庫に入った電車の中や外のモーターなどの掃除をしました。
だんだん戦争も厳しくなり、毎日空襲があり、大阪の空を真っ赤に染めていきます。私たちは枕木で作った防空壕に、おひつとたくあんを抱えて警報のたびに逃げ込んで、空襲をやり過ごしました。壕から出て見ると、上に不発弾が刺さっていたこともありました。
いよいよ日本の敗戦です。天皇のお言葉を聞いてみんなで泣きました。
それから半月くらいたった頃、大阪港に上陸した兵隊を運ぶ電車を出してほしいとアメリカ兵が来ました。女子は隠れていなさいと言われました。
兵隊が「日本は女子が働いていないのか。だから負けたんだ。アメリカでは12、3歳から働いている」と言うと、所長は「そうじゃないんです。日本もみんな働いています」。そうして出て来なさいと言うので出ました。
そうしたら箱いっぱいのチョコレートやビスケットなどをもらいました。あの時のお菓子のおいしかったこと。今、不自由なく食べているお菓子より、おいしかった。
苦しい思い出とともにそのおいしさが心に残っています。外国人が悪いのではない、戦争がいけないのだと思いました。