(女性、85歳)
昭和22年の夏。満州からの引き揚げ船の甲板の上にいた私は、かわいらしい女の子と会った。
「8歳なの、光子というの」。両親はいないという。
こんな幼い子がたった一人で、と思って「仲良くしましょうね」と言った。
互いに慣れた頃、光子ちゃんは静かに話し出した。「戦争が終わって、皆、ほっとしていた頃だった。家は開拓団だったの」
…皆が広場に集っていたら、ソ連兵がやって来た。人を戦車でつぶし、拳銃を撃ちまくる。地獄のようだった。
ソ連兵が去って静かになると、しばらくして15歳の少年が現れて、「生きている人、いますか。生きていたらここに出てきてください」と大きな声を上げ、広場を走り回った。
小さい子たちが出てきた。4歳の男の子、5歳の男の子、そして光子ちゃん。倒れたお母さんの背で動いている赤ちゃんがいた。
少年は赤ちゃんを背負い、「ここから離れよう。手をつないで歌いながら歩こうね」と促し、ゆっくり歩き出した。
田舎道を休んでは歩き、農家を見つけた。少年は床に頭を付けて、赤ちゃんのことを頼んだ。「もし子どもが欲しい人、かわいがってくれる人がいたら渡してください。この子はお乳も飲んでいないのです」
農家の人たちは納屋に、新しいわらを細かく切って寝るところを作ってくれた。まるで雲の中にいるようで、ふわふわだったという。目を覚ますと、皆でそろって土下座した。「このご恩は決して忘れません」。4歳の子も、皆と同じように頭を下げた。
…それから日本人の住む町へとたどり着き、今、この船にいるのだという。
「ソ連兵がお父さんお母さんに近づいた時、すぐにお母さんのところへ行こうと思ったが、足が動かなかった」。それまでは大人のように話していた光子ちゃんが、初めて子どもらしく泣いた。
私はどうしていいか分からず、手を握った。
「戦争はもう終わったんだから、そして日本に着いたんだから、強く生きようね」。博多港は夕焼けで真っ赤だった。光子ちゃんも真っ赤だった。
私は光子ちゃんを忘れない。おかっぱ頭でかわいい、くるくるの目。私が12歳、光子ちゃんが8歳の夏のこと。