
(男性、91歳)
私たち家族は東京に住んでいた。長男の私は昭和18年3月、国民学校高等科2年を卒業。満14歳で親元を離れ、現在の習志野市にあった軍需工場へ養成工として就職し、寄宿舎に入った。
食事は工場内の食堂で3食取っていた。当初はまともなご飯だったが、次第にサツマイモや大豆が多くなり、昭和19年ごろには大豆の中に米粒が交じるご飯になった。そのため消化が悪く、胃が痛くなった。
この頃になると、米軍のB29爆撃機が編隊を組んで、昼夜を問わず来襲した。空襲警報が鳴り、千葉の工場でもそのたびに防空壕へ避難した。
工場には女学生の女子挺身隊員の方々も来て、作業をしていた。私の職場は小型旋盤作業で、その子たちに作業を教えていたが、きれいな子が多く、毎日が楽しかった。
そして昭和20年3月10日未明に「東京大空襲」があった。現在の江東区、墨田区のいわゆる東京の下町の大部分が火の海となった。
私は翌11日に現地に入ったが、道路に黒こげの死体が散乱し、大変な状況だった。ここで両親と弟妹5人、家族7人全員の死を知った。私は泣きながら千葉へ帰った。75年たった今でも、この悲しみは消えることはない。