
(ふーちゃん=女性、82歳)
東京・新宿の国民学校で1年生の3学期になる頃だったでしょうか。戦争が激しくなり、「小国民」は地方に疎開をさせようということで、「集団疎開・縁故疎開のどちらかを選択してください」と学校から通達がありました。
私は、母の里である埼玉の久喜に預けられ、東京とは違う遊びに慣れようと苦労の連続でした。
あの晩、「早く起きろ、東京が燃えている!」と祖母に起こされ、縁側から南の方向を見ると、畑のずっと先、林の向こうの空が真っ赤でした。
「東京の家は焼けただろう」。眠い頭で家族のことには思い至らず、せんべい布団にパタンと寝てしまいました。
翌朝も普段通り、学校に向かいました。学校から帰ってハッとしました。ちゃぶ台で母がご飯を食べていたのです。焼け焦げた跡のあるもんぺ姿で、髪の毛もボロボロでした。
疎開のおかげで空襲の恐ろしさは直接体験しませんでした。中学生の頃は、友人と疎開の思い出を話し合うこともありました。集団疎開をしていた男子が「腹が減って、歯磨き粉を食べた」と言っていました。
父母が亡くなって40年、兄は数年前に亡くなり、戦災のことを話し合える家族はいなくなりました。