
(女性、91歳)
昭和19年5月ごろから半年間、母の生まれ故郷である相模原の田舎に疎開した。いつか空襲が来ることを考えての疎開だった。
当時私は15歳、下に3人の弟・妹がいた。自営業だった父を一人横浜に残して、母と子どもたち4人が、母のいとこの家の一室を借りて暮らすようになった。部屋を貸してくれた家にも、ほとんど同年の4人きょうだいがいた。
農家だったので、ヤギがいたり、近くに畑があったり。子ども心には、田舎暮らしが楽しめるのがうれしく、喜々として手伝ったのを思い出す。
でも、風呂へ井戸から水をくんで運ぶのは重労働で、大変な思いをした。私たちは、その家の全員が入った後に順番に入ったのだが、湯は濁ってしまっていた。厠(かわや=トイレ)が少し離れた外にあるので、夜は行くのが怖かった。
父は店の休みの前夜、相模原まで自転車に乗って家族に会いにきた。そんな思いをした疎開生活なのに、半年で見切りを付けて戻ってきてしまった。翌年5月29日に横浜は大空襲に見舞われたのだ。