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白梅の記(下) 「最後の最後に伝えたい」

社会 | 神奈川新聞 | 2020年7月27日(月) 15:00

白梅学徒隊の同級生との集いでの1枚。中央に写るのが諸見里静子さん。5人のうち2人は鬼籍に入った=2012年11月、那覇市(静子さん提供)
白梅学徒隊の同級生との集いでの1枚。中央に写るのが諸見里静子さん。5人のうち2人は鬼籍に入った=2012年11月、那覇市(静子さん提供)

 「白梅(しらうめ)学徒隊」の一員として沖縄戦に動員され、生き延びた諸見里(もろみさと)(旧姓・稲嶺)静子さん(92)=横浜市鶴見区=は1957年、琉球政府の計画移民として、南米ボリビアに移り住んだ。沖縄からの移住者が開拓した「コロニア・オキナワ」を訪れる日本人向けの民宿をサンタクルスで営み、4人の子どもを育てた。生活は豊かだった。

 美容師として働いていた次女にがんが見つかった。「治療法がない」と言われ、余命まで宣告された。だが諦めきれず、より良い治療を求めて日本に戻ることを決断する。82年に帰国。日本に出稼ぎに来ていた長女の夫が横浜市鶴見区で立ち上げた電気設備会社を手伝いながら、次女のために奔走した。さまざまな治療を試した結果、がんは寛解した。

 90年に入管難民法が改正され、日系人があらゆる職種に就労できるようになると、出稼ぎで来日していた日系人の多くが区内で定住するようになった。日本語が話せない従業員の世話をしていた静子さんはいつしか、「日系人の母」と呼ばれるようになった。

 野戦病院解散後、16人の白梅学徒隊が最後にたどり着いた沖縄県糸満市真栄里には、慰霊の塔が立つ。隊員や県立第二高等女学校の教職員らが合祀(ごうし)され、沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日に毎年、慰霊祭が執り行われている。

 静子さんも20年にわたり、慰霊祭に出席し、元隊員らと手を合わせてきた。

 きっかけは沖縄に住む妹だった。85年のある日、生存者が年1回、慰霊の塔を参拝していることを電話で知らせてきた。強く勧められ、参加を決めた。「こういうことがあったと伝えることは必要だと思ったから」

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