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横浜・米軍機墜落36年
終わらぬ不条理(上)母子の犠牲 安保の前の「一粒の砂」

社会 | 神奈川新聞 | 2013年10月1日(火) 17:14

現在は閑静な住宅街となった墜落現場に立つ土志田隆さん。ジェット機はこの道路に突っ込んだ=横浜市青葉区
現在は閑静な住宅街となった墜落現場に立つ土志田隆さん。ジェット機はこの道路に突っ込んだ=横浜市青葉区

 なだらかな坂道に庭付きの一戸建てが並ぶ。公園に茂る木々の緑がまぶしい。「今はもう閑静な住宅街。ここで事故があったなんて分からないでしょ」。東急田園都市線江田駅近くの丘に立ち、土志田隆(64)は遠くを見やった。

 36年前のあの日は、9月も終わりだというのに汗ばむような陽気だった。

  ■■ 

 1977年9月27日午後1時20分。横浜市緑区荏田町(現・青葉区荏田北)にジェット機が墜落した。15キロ離れた厚木基地から飛び立った米軍偵察機ファントムだった。
 
 炎の塊となったエンジンが民家を直撃。噴き出した燃料が半径150メートルの家々と庭木を焼き尽くした。住民3人が死亡、6人が重軽傷。操縦していた米兵2人は墜落直前にパラシュートで脱出し、無事だった。


エンジンから火を噴き墜落する直前の米軍偵察機ファントム
エンジンから火を噴き墜落する直前の米軍偵察機ファントム

 普段なら10分ほどの道のりにどれだけの時間を要しただろう。 

 「妹さんの家が燃えてるぞ」

 土志田は経営していた生花店を飛び出した。警察が規制をしていたのか、道路は渋滞していた。車を止め、造成中の宅地に続く山道を駆け上った。

 原形を失ったジェット機の残骸が目に飛び込んできた。妹の家は骨組みをさらし、黒焦げになっていた。
 
 妹の和枝(当時26)と長男裕一郎(同3)、次男康弘(同1)は病院に搬送された後だった。

 和枝は全身にやけどを負いながら、奇跡的に一命を取り留めた。

 それはまた、長く苦しい日々の始まりでもあった。昭和大学藤が丘病院での治療は激痛を伴った。皮膚の8割が失われ、感染症を防ぐため硝酸銀の風呂につかって殺菌しなければならなかった。土志田と父は「子どもたちに早く会えるよう、頑張ろう」と励まし続けた。息子との再会は病床の和枝を支える唯一の希望だった。


墜落直後の事故現場。吹き飛んだエンジンが和枝さんの自宅前で黒焦げになっていた=1977年9月27日
墜落直後の事故現場。吹き飛んだエンジンが和枝さんの自宅前で黒焦げになっていた=1977年9月27日

 幼い2人はしかし、事故翌日に息を引き取っていた。
 
 「子どもの死を知れば、和枝が壊れてしまうと思った」。会いたいと言えば転院したとうそをつき、新聞や雑誌は子どもについて書かれていないか、目を通してから手渡した。「あの子たちのことが載ってない。写真を撮ってきて」。和枝は盛んにせがんだ。

 伝えることができたのは事故から1年4カ月後。「『やっぱり』というような反応だったかな」。和枝は2人の葬儀に出ることはできなかった。米兵パイロットが姿を見せることはなかった。行き場を失った怒りは、米軍基地の担当だった防衛施設庁の職員に向かった。「私が苦しんでいるんだから、今すぐここへ来なさい!」。夜中に何度も電話を鳴らし、当直の職員に当たり散らした。

 事故から4年後、歩行のリハビリが始まった。和枝が医師の指示に従うよう、夫は厳しく接し、父は優しく諭すという役回りを演じた。だが、和枝は次第に夫への不満をため込んでいき、一人で離婚を決めた。

 実家に戻った和枝は夜中に呼吸困難を訴えるようになった。「救急車を呼び、病院へ行く。ロビーで数時間過ごすと落ち着いて苦しさは収まった。精神的なものだったのだろう」

 やがて救急車は搬送に応じてくれなくなった。土志田は父と交代で車を走らせた。一晩に2度連れていくこともあった。疲れ果て、いら立ちから、土志田も防衛施設庁の職員に電話口で怒鳴ることがあった。「すると和枝は『お兄さんもそう思うでしょ』と。なだめるべきなのに、エスカレートさせてしまった」。今もそう悔やむ。

 81年12月、和枝は精神科の単科病院に入院した。翌年1月、見舞いからの帰り道、土志田のもとに容体悪化の知らせが届いた。事故から4年4カ月、31歳で閉じられた生涯。死因は「心因性の呼吸困難」だった。

  ■■ 

 現在も青葉区で生花店を営む土志田は、自問自答を繰り返す。妹はなぜ死ななければならなかったのか。生と死の境はどこにあったのか。人は大切な人を失ったとき、どこかで悲しみに折り合いをつけていく。たとえば「それが運命だったのだ」というように。

 土志田は言う。「これが彼女の運命だったなんて、到底思えない」。日米安保条約で米軍に守られている以上、事故はやむを得ないのか。パイロットの責任は問われなくても仕方ないのか。被害者への謝罪や説明は必要ないのか。

 「和枝は防衛施設庁の職員を怒鳴っても仕方がないことは分かっていた。そうしなければ心が保てなかった。たとえ、パイロットに謝られても納得はできなかっただろう。結局、最後まで言いたいことは口にできなかったのではないか」。国家の論理の前に立ち尽くした日々を振り返り、土志田はつぶやく。「私たちは、砂山の中の一粒の砂のようなものだ」

  ■■ 

 和枝のはす向かいに住んでいた椎葉寅生(74)もまた、やり場のない思いを抱え続けていた。 

 やはり家が全焼し、妻悦子(71)が大やけどを負った。探し当てた埼玉県内の病院での治療が功を奏し、やけどは快方に向かった。「和枝さんにも病院を紹介してあげればよかった。自分たちのことで精いっぱいだった」。同じ被害者にもかかわらず、隣人の死を悔いとともに引きずっていた。

 原因が知りたいという思いも同じだった。だが、事故機の部品は米軍によって持ち帰られ、操縦士2人が帰国したことを知ったのは報道を通じてだった。国への不信感が募っていた。



 米軍機墜落事故から36年がたった。被害者や遺族のその後をたどり、私たちの足元に巣くう日米関係のひずみを見た。=敬称略

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