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~関東大震災90年~ 語り継ぐ(6)
未曽有に学ぶ〈6〉残す(上)◆教師の悲劇子に伝え

社会 | 神奈川新聞 | 2013年9月6日(金) 16:55

逗子の震災被害を掘り起こし冊子にまとめた黒田さん=逗子市山の根の自宅
逗子の震災被害を掘り起こし冊子にまとめた黒田さん=逗子市山の根の自宅

 「この写真、どこか分かるかな」
 3日、逗子市立逗子小学校。図工教室の壁に張られたモノクロ写真を指さしながら、市防災課職員の浅見茂雄(61)が1年生に問い掛けた。写っているのは、ぺしゃんこになった木造校舎。「どこだろう」と首をひねる児童たちに、ひときわ大きな声で答えを明かす。「これは逗子小学校、ここで起きたことなんだよ」

 驚きの声を上げる児童に、続けた。「90年前に起きた大きな地震で校舎がつぶれ、先生が1人死んじゃったんだ」

 「防災の日」に合わせ、逗子、鎌倉の被災の様子を伝える写真約20点や手作りの津波ハザードマップを校内に張り出す「減災展示」。授業時間を利用して見学する児童に浅見たちが関東大震災を伝えるのは、「身近なところに被害が及んだ過去の災害から、命の大切さを学んでもらう」ためだ。

 だが、逗子の写真は10点に満たない。「逗子の被害状況を記録した写真はほとんど残っていない」と話すのは、浅見とともに減災展示の講師を務めた市民グループ「三浦半島活断層調査会」の蟹江由紀(64)。子どもにも一目で分かる資料を集めるのに難儀してきた蟹江もまた、かつては「地元逗子の被害を知らない」一人だった。

 大人の間でも、広くは語り継がれてこなかった災禍の歴史。

 掘り起こしたのは、1990年に刊行された「関東大震災と逗子」というタイトルの冊子だ。著したのは逗子の郷土史研究家、黒田康子(98)。

 群馬・桐生の寺に育ち、8歳のときに震災を経験した。冊子では、その日を「朝から生暖かい風が吹いて暴風雨だった」と振り返り、「突然グラッときて、(父母と)三人で寺の境内のまん中まで逃げた」と、北関東も強い揺れに襲われたことを伝えている。

 寺に大きな被害はなかったものの、遠く山の向こうに赤い空が見えた。「あれは東京や横浜の大火だった」と今も確信している。

 黒田が伝えたかったのは、自らの被災体験ではない。横須賀市震災誌や鎌倉震災誌、県警察部の記録などの公的な資料を読み込み、逗子の被害の実態を記録することにページを割いた。

 さらに、徳富蘇峰ら当時逗子に暮らしていた言論人や著名人の見聞録を収録。市井の体験者への聞き取りも重ねて、生々しい証言から揺れや津波の状況を浮かび上がらせている。

 「ドシンドシンと突き上げて来る激烈な上下動(略)自分はあまりの恐ろしさに父親に抱きついたが、大きな上下動で畳に放り出された」「『津波だー』という声で、慌てて徳川別荘辺の山に登った。するとみるみる水が上がってきて、もやっていた舟が富士見橋にぶつかった途端、橋が流されていった」

 「関東大震災と逗子」には、逗子小の悲劇も記されている。現場にいた男性教諭の回想文だ。

 激しい揺れに慌てた教諭は「廊下においてあった新しい事務机の中にもぐりこみました」。ほどなく悲鳴を上げて3人の女性教諭が逃げてきた。そのうちの1人の上に「天井のはりが落ちて来たのです」。近くの寺へ連れていき救命を試みたが、息を吹き返すことはなかった。

 その悲劇を静かに語り継ぐ姿見が、かつて逗子小にあった。遺族が寄贈したもので、女性更衣室にしつらえられていたが、校舎の建て替え後、所在は分からなくなってしまった。

 「私の記憶では、とっても大きい鏡だった」。40年ほど前から10年間、逗子小に赴任し、姿見の前に立っては女性教諭の悲運に思いをはせた久保昌子(68)。今、三浦半島活断層調査会の一員として、減災展示の解説を締めくくる紙芝居を担当し、防災教育の一翼を担っている。

 披露するのは、1854年の安政南海地震の逸話をもとに、津波が来る前に避難する大切さを訴える「稲むらの火」。読み終えた後、子どもたちに尋ねる。「人は何を持っているかな」

 「命!」と元気のいい声が上がると目を細め、こう結ぶ。「そうだよね。だからみんな、自分の命を大切にしなきゃね」 =敬称略


紙芝居を通じて命の大切さを伝える久保さん(右)=逗子小学校
紙芝居を通じて命の大切さを伝える久保さん(右)=逗子小学校

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