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安倍政治を考える
時代の正体〈657〉白井聡さんが語る「国体」からみえるもの-(下)

社会 | 神奈川新聞 | 2018年12月8日(土) 10:24

戦前と戦後を貫く「国体」の考察で浮かび上がるこの国の不条理について語る白井聡さん
戦前と戦後を貫く「国体」の考察で浮かび上がるこの国の不条理について語る白井聡さん

価値なき国民の末路


【時代の正体取材班=田崎 基】対米自立できるタイミングがあったにもかかわらず、自立の戦略を描かず、むしろ従属を深めてきた日本。多くの国民は「米国への従属」を自覚することなく、それを自明のことと捉えている。その傾向は、2012年12月の第2次安倍政権発足以降加速し、病的なものとなってきた。

 なぜこうも不条理なことが起きているのか。それはまさに対米従属が戦後日本の「国体」に他ならないからだろう。戦前期には大正デモクラシーの一時代があったにもかかわらずファシズムの時代を迎えた。それは大正デモクラシーの限界が天皇制によって画されていたからではないか。

 ではその核心とは何か。私が「国体論」(集英社新書)で打ち出したのが家族国家観だ。「天皇陛下の赤子」という言葉に代表されるように、日本国民は一つの大きな家族であるとみる考え方で、明治期から強力に形成されていった。

支配否定する国家観


 この家族国家観の問題点の核心は「支配の事実の否認」にある。

 国家はその本質上、究極的には暴力によって担保される「支配」のシステムだ。だが家族国家観は、「これは支配ではない。私たちは一つの家族なのだから『支配』などというギスギスした話はやめようよ」という論理を持ち出す。

 これは西洋で発明された近代国家の理論とは根本的に食い違う考え方だ。

 17世紀の政治哲学者、トマス・ホッブスが主著「リバイアサン」でどのような議論をしているか。彼によれば、人間とはすさまじいエゴイストで、自分の利益だと思えば何でもやる。そこには善悪の基準など存在しない。そのような人間が集まれば互いに奪い合い殺し合うことになる。「万人の万人に対する闘争」、つまり戦争状態になる。

 しかしそれでは結局全員が不幸になる。そこで「人のエゴは徹底的に衝突する」ことを前提に、正当なエゴイズムと、不当なエゴイズムとの間に線引きをし、秩序を作ろうという議論をしている。ここに「権利」という観念が生まれる。正当なエゴイズムの主張が「権利」だ。

 ところが、明治期に日本で形成された「国体イデオロギー」は、このような近代的政治理論を真っ向から否定するものだった。「日本人は一つの家族であり、従って最初から仲良く調和している。エゴの衝突はそもそもあり得ない」という前提に立つ。そして、天皇は日本人という一大家族を温かく見守る「大いなる父」であるとされた。

 これは、「わが国では一度も王朝が交代していない」とする万世一系イデオロギーと深く関連する。それによると、日本の天皇は、中国の皇帝や西洋の王様と似ているように見えるが、実は全く異なるのだ、という。皇帝や王様は「支配する」君主であり、国民がみんなエゴイストで互いに衝突するから、上から押さえつける君主が求められたのだ、と。だが、君主も自身のエゴイズムを持っている。だから時に民衆の反発を招き、王朝が倒されて交代したり、王制そのものが廃されたりした。

 そのような外国の歴史と比べると、日本国の歴史は卓絶している、という理屈を国体イデオロギーは立てた。天皇も国民もエゴイズムがないから衝突しない。ゆえに一度も王朝は倒れず、万世一系が貫かれてきたのだ、と。

 これは物語としては美しく感動的かもしれない。しかし、これは実際にはまがまがしいものだ。なぜなら、日本の国家というものは間違いなく権力であるし、この権力に従わない者に対しては命を奪いもする。だから「家族国家観」という考え方は、支配機構自体が、自らが支配機構であることを否定しながら支配することに帰結する。

 いわば、拷問をしながら「これは愛の鞭(むち)なんだ」と言うようなものである。

権利に冷たい社会


 国体観念に端を発する社会観は現在、非常に重大な危険をもたらしている。いまだに「権利」という概念が日本社会に定着していない。その証拠に、いまの日本は権利を要求する人たちに対してものすごく冷たい社会となっている。権利の主張に対して脅迫的な反応さえもたらされている。

 そもそも権利概念は、個人のエゴイズムを認め、それが衝突することを前提に存在している。だが、エゴイズムは存在しないという前提に立つと、権利の観念も必要なくなってしまう。

 日本人は潜在的に無権利状態にあるのだろう。だから、誰かが「私の権利を回復せよ」とか言い出すと、その人があたかも不当な特権を要求しているかのように錯覚する。そして主張した人が袋だたきに遭う。

 この状況は、明治時代に生まれた「家族国家観」という国体イデオロギーがいかに強力で長命かを物語っている。ここに、米国を媒介として国体の構造が生き延びたことの深刻さが浮かび上がる。

 この対米従属が対外的なものだけであれば世界中どこにでもよくある話にすぎないが、日本はそうではない。日本社会を内側から腐らせてしまっている。

 ただ、2011年3月11日以降、つまり東京電力福島第1原発の事故以降、「この国はどこかとてつもなくおかしい」と感じ始めた人々の多くが「なぜこうなっているのか」と考え、根本に奇妙な対米従属があるということに気付き始めている。これがやがて、社会変革の大きなうねりをつくり出す可能性がある。

覇権の移動迫る危機


 しかし、社会の大勢はそうした危機的現状を正確には認識していない。安倍晋三首相が長期政権化できたのはそのためだ。氏には、日本の未来について何のビジョンもなく、あるのは自民党支配の成功物語という夢であり、そこにすがるしかない。だから東京五輪、大阪万博だ、という話になってしまう。

 
 

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